第五章(和議倒産) その4 

(二度目の登場だが、筆者が勤務した前の会社の大阪本社工場内にあった毛布の展示場。昭和五十二年春に撮影。総てが目付二キロのハイゲージのタフト毛布。右側一番手前の花柄の毛布を訪問販売の事業部で扱った)

昭和四十九年春、大阪の商社、伊藤信寝具課の課長を辞めて、何故か野須川寝具に転職した男がいた。商社で販売成績を揚げた男なら、すぐに人材だと評価してしまうのは、商社船栄上がりの俊平の悪い癖だった。自分は原料売買を止めて製造業者になったのに、商品企画力や、新製品の開発力や、品質管理能力や、工場労務者の管理能力は評価せず、結局は得意先と親しくなる能力の方を評価する癖が治らなかったのだ。その後訪販事業に乗り出し、全国に販社を創った時は、実に多数の商社マンが俊平によって引き抜かれ、販社の幹部をして雇われた。しかしその結果を見るなら、事業経営の成功例はひとつもなかった。この伊藤信から入って来た須川も例外では無い。
寝装を担当する井川常務も、毛布を担当する牛山常務も、商社マンの須川を自分の事業部に引き取るのを断固拒絶した。この二人が龍平を引き取るのも嫌な顔をしたのは、龍平が社長の息子だというやりにくさもあったのかもしれないが、入社以来ずっと「ものつくりの世界」でやって来たこの二人は、商社マンの須川は勿論、いつまでも商社マンのカラーが抜けない龍平とも、肌が合わないという理由もあったのである。

そういう理由をこの子飼いの二人から言われる度に、俊平は息子の龍平を太平洋商事に入れずに、帝都紡績に入れるのだったと後悔することがあった。
その頃、野須川寝具の前身、野須川商店時代の本業だった繊維原料商の仕事を未だに担当しているのは、藤川ただ一人になっていた。そこで俊平は、藤川次長ひとりが見てきた原料部を解消し、須川を部長に、配下に藤川と龍平の二人を付けて、繊維資材部という部門を作り、嘗ての原料部の好成績を復活させようとしたのだ。
昭和四十九年は、牛山常務率いる毛布事業部の飛躍の年であったけれど、繊維資材の売買で売上を作るよう指示された龍平には、まったく進歩も成果も得られない年になった。いくら太平洋商事での営業経験があろうと、既に殆どの繊維加工業者がどこかの合繊メーカーの系列下に組み込まれる時代に、フリーな市場から原料を買う加工業者がいたら、なにか理由(わけ)有りであって、そんな怪しい取引にこちらから飛び込んで行くなど、考えられない時代になっていたからだ。
おまけにこの年の八月になると、藤川次長の原料部時代に上げて来た収益の大半が、どうやら粉飾だったとの疑惑が発覚し、それから二ヶ月かけて財務経理の長村専務や、大谷経理部長が調査すると、過去五年に渡って、五千万円もの利益を過大に計上していることが判明した。但し藤川次長は横領したのではない。売掛金や在庫金額を膨らませて、収益を過大に計上していて、彼自身の給与分くらいの利益を毎月やっと稼いでいたに過ぎないという実態が判明した。俊平は藤川を平社員に降格させただけで、それ以上の処分は無かった。原料の売買なんて、嘗てのように儲かる商売では無くなったことを、俊平自身が一番良く知っていたからではないだろうか。

ただ龍平はこの時、藤川の粉飾の調査を長村らが開始することになった時の、部長の須川が顔色を変え、慌てた姿が忘れられず、勘を働かせ、龍平は独自に部長の須川の取引内容の調査を開始する。そして遂に須川の入社以来の取引に、不審の箇所を幾つか見つけたのだ。須川には直接糺さず、俊平にこっそり報告した。その後は俊平が、須川の身辺を調査をし、彼が数百万円の横領をした事実を掴んだ。
須川はその弁償の為に自宅まで売却したと龍平は後で知った。藤川は会社に残るのを許されたが、須川は当然ながら懲戒免職になった。

しかし藤川が五千万円もの穴を開けてくれたことで、長村専務の下にいた大谷経理部長が「もう普通の神経では仕事が続けられなくなった」と俊平に辞表を提出した。
俊平にとれば、原料商時代からの子飼いの社員に五千万円の決算を粉飾されることよりも、こちらの方が余程大事件であったに違いない。
何故ならほんの数ヶ月前に経理部長として野須川寝具に入って来た大谷は、野須川寝具の取引銀行ではないが、大阪福利相互銀行の支店長をしていたのだ。
俊平はこの頃から仕事が終わると、週二日のペースで、梅田界隈にまで出て、スポーツジムに熱心に通っていた。そこで会員同士親しくなったのが、大阪福利相互の大谷支店長であり、後日の和議事件を引き受ける池口弁護士である。また奈良国際でのゴルフ仲間として、特に親しかった寧楽銀行大阪支店の桜井支店長(後の寧楽銀行頭取)も、この同じジム仲間であった。
大谷は俊平に信頼され、野須川寝具の資金繰りと銀行折衝を一手に任されていた。五千万円を原料部で

粉飾していましたと、笑って決算が修正できるなら問題はなかろう。
しかし銀行に約定返済した資金は、直ちに担保が空いた銀行から融資を受けなければならない自転車操業の資金繰りの会社に、五千万円の損益を訂正するような余裕などある筈もない。
当然、税務署には報告するとして、仕入れ先や銀行や交信所に話せることではなかった。
だが一方では、往時メイン・バンクであった上方相互銀行城東支店を始め、各取引銀行は、福祉相互で支店長をしていた大谷が経理の責任者なのだからと信用して、大谷が望むままに融資を実行して来たのである。
大谷は銀行マンらしく、神経が細やかで、他人を嘘をつくのは気が咎める質の人だった。だからこのまま粉飾の事実を黙ったままにするのなら、自分を信じてくれる人たちとこれ以上仕事を続けるのは自分の信条が許さないと俊平に訴えたのだ。だから俊平はそんな大谷を止めることは出来なかった。

俊平は思案の結果、繊維資材部を解消し、藤川は井川の寝装事業部に一旦預かってもらい、龍平は大谷の経理と銀行折衝の業務を引き継がせることにした。銀行には、私的な事情で大谷が職を辞することになったが、後は自分の後継者である龍平に重要な銀行取引を任せますと言い切ることで、この異動に取引銀行が不信感を抱かせないように計らったのだった。
十二月の一ヶ月、大谷は龍平にみっちりと銀行折衝のテクニックを教えた。銀行で支店長まで務めた大谷が、銀行への融資の申し込み方、それに添付する事業計画書の書き方まで教えたのであるから、龍平は銀行折衝が得意中の得意になって行くのである。

年が明け、昭和五十年一月から、龍平は長村財務担当専務の下で、経理部長を務め、一人で大阪の城東区蒲生四丁目付近を中心に、市内十行余りの銀行との折衝と、月次決算業務を担当することになった。
往時はメインバンクが上方相互銀行の城東支店だったが、こちらは野須川商店時代の繊維原料商から寝具製造業に転業した時代からの付き合いで、俊平のこれまでの歩みをあまりにも知りすぎていたのが良くなかったか、野須川寝具の未来へ向けての事業拡大に応援しようとの姿勢はあまり見られなかった。
龍平がその間に親しくなったのが、なみはや銀行の城東支店だった。
上方相互とは何もしないのに、なみはや銀行とは支店長と一緒にゴルフに出かけたり、飲食を共にしたりもした。
その内になみはや銀行の融資額が伸びて、メインバンクの上方相互と横並びになった。なみはや銀行は龍平の将来性を買うことで、野須川寝具産業の将来性も他のどこの取引銀行よりも買っていたのだ。
後にこの支店長が替わって、山村頭取の信任が厚い羽田支店長の登場となり、羽田が俊平を山村頭取に引き合わせたお蔭でなみはや銀行本店営業部がメイン・バンクとなるのだが、それは少し先のことだ。
なみはや銀行の城東支店長が、龍平の縁談の話を持って来るまでになって、俊平は慌てて親会社の帝都紡績の谷本常務に、息子の嫁になる娘さんを世話してくれと頼みに行く。俊平は息子龍平の結婚式の大披露宴を、なみはや銀行ではなく、是非とも帝都紡績の関係者で固めたいという夢があったからだ。
秋には龍平は、帝都紡績アクリル総部担当の谷本常務夫妻の紹介で、岩出智代と見合いをする。
翌年四月四日には、龍平と智代の結婚式が、数百名の業界関係者を呼んで市内のホテルで挙行された。
龍平たちが新婚旅行から帰って来ると、国税局が野須川寝具の税務調査に入って来た。

調査の結果、これも解釈の問題ではあったが、牛山常務が担当する毛布事業部の利益が四千万円ほどの利益計上が、翌期に繰延べになっていると国税局は指摘した。
この頃はハイゲージのテイボーアクリル毛布の全盛時代である。
交渉の末、原料部の粉飾から出た五千万円の損失の未計上分と相殺させてもらうことで話がついた。
これにて野須川寝具の決算書は、総てが正しい数字となり、銀行や仕入れ先の商社に決算書を出しても、龍平の良心の咎めることは無くなった。
龍平の経理の仕事は一旦この夏で終了する。毛布事業で今度はハイゲージタフト機を使って、アパレル衣料用途の表素材を扱うことになり、龍平がその担当に決まって、経理部長は人材銀行から紹介されて来た近藤が引き継ぐことになる。
龍平は徹底的にハイゲージ・タフト機で目付を落として生地を作ってみた。そして蒸気処理をするタンブラーの時間を変えて、三タイプの形状の生地を作った。
大阪の船場でこの見本を持って回ったが、奇抜すぎると相手にする衣料メーカーは無かった。
ところが帝都紡績が紹介した岐阜のアパレル・メーカーに行って見ると、冬物カット・ソーの素材にぴったりだととんとん拍子に商談が纏まった。
防寒衣料のゴールド一色の裏地とは違い、複雑なカラーには染めなければならないが、何倍もの付加価値を得ることが出来た。
訪販事業に手を広げるよう、先達の寝具訪販業者、ミツバチマーヤの顧問をする東京の山崎が、俊平を口説きにやって来るのは、その年の十二月のことだった。

第五章 和議倒産 その⑤に続く