第四章(報復の応酬) その9
(現在の東京銀座京橋付近。)
牛山は言いたいことだけ言うと電話を切ってしまった。
クソ、この会社をひとりで創ってきたこの俺が、何故追放されねばならないのだ、この俺が不良資産を好き好んで作る訳など、有る筈無いじゃないか、最後まで任せてくれるなら、赤字を出さずに十か月で償却してやるのに、と龍平は怒りに震えた。
龍平のただならぬ様子に、本部スタッフは思わず立ち上がり、龍平と向き合う。
最初に声を発したのは、同じように不安顔で立ち上がった、テイボー化粧品出身の小島専務だった。
「野須川常務、牛山本部長から何か言って来たのですか」と言いかけた小島を遮り、龍平も席を立って全員を見回してしゃべり出した。
「私は今月末で、一億円という巨額の架空売上による不良債権を作った責任をとって、この会社の代表取締役を解任され、この会社を離れることになりました。と言っても転勤ではありません。私は父親からも余程愛想を尽かされたらしく、野須川寝具グループからも追放になりました。つまり私がカシオペアにおられるのも今週末までです。しかし週末は私用なのですが、引越しの準備もあって、金曜日からお休みを頂くつもりです。であれば皆さんと一緒に仕事ができるのも、明日から後三日間です。この三日間で、きっちりと小島専務に引継ぎをいたします。後は小島専務を皆さんでこの会社を支えて行って下さい。皆様には短い期間でしたが、本当にお世話になりました」
「冗談じゃありません。私がひとりでこんな会社、やって行ける筈ありませんよ。直ぐ会長に直談判してみます。いいですよね」と小島は悲鳴を上げる。
「それはご随意に。今更何を言っても、大阪本社の役員会で決まったことが覆ることはないでしょうが。私はその間に東京の家内の実家にこのことを報告させてもらいます」
龍平は中山にいる義父の岩出富太郎に電話した。
「おお、龍平君か。中山に引っ越して来るのは、いよいよ今度の日曜日だな。雅代ちゃんも大きくなっただろう。早く雅代ちゃんの顔が見たいね。尤もこれからは毎日見られるのだが。日曜の夜は、君たち三人を歓迎する為に、ご馳走を用意しておくから、そのつもりで」
「お義父さん、私は南関東販社をこの度、一億円の不良資産を作ったからと解雇され、野須川寝具グループからも追放になりました」
「なんだって、例の架空売上問題だな。最終的には、そんな大きな金額だったのか」
「いいえ、実はもっとあったのですよ。逆算すれば一億五千万円くらいあったのを五千万は償却したのです。だが残った一億円の架空売上が問題になりました」
「よく分からないな。そもそも君は会社を立ち上げてから、売上はいくら計上したのだっけ」
「売上取消を差し引いて、十億円強ですね」
「売上の十パーセントか、僅か十パーセントの不良資産が残っただけともとれるのだが」
「お義父さん、大阪の本社は製造業ですから、誰もそんな見方はしてくれません。一億円は巨額な不良資産です。それを私が自分の意志で創ったことにされているのです。いずれにせよ、私は東京で仕事を探さなければならなくなった訳で」
「僕は納得できんよ。百歩譲って、南関東販社の代表を辞任するにしても、君の弁明も聞かずに、何故グループから追放しなければならないのだ。僕はね、俊平さんが何かとんだ思い違いをしているとしか思えない。何だったら、僕からお父さんに考え直すよう言ってみようか」
「いや、それには及びません。お二人に喧嘩でもされると、私や智代が困りますから」
「龍平君、仕事を探すのは急がないで。二、三か月だったら、君たち三人の生活くらい、面倒見させてもらうからな。だから暫く様子を見よう。君のお父さんが、きっと後で後悔されるような気がしてならないのだ」
龍平の電話が終わるとほぼ同時に小島の電話も終わった。
小島は龍平に尋ねた。
「野須川常務は、鎌倉に住む田野倉という人を知っていますか。四月二日から南関東販社に社長として赴任して来るそうです」
「田野倉、誰でしょう。どこの田野倉さんとか言ってませんでしたか。もしかして大忠の田野倉さん」
「そうです、大忠の田野倉と言っていました」
「分かりました、父が原料商をしていた頃の取引相手です。私が幼児の頃に会ったかもしれませんが、覚えていません。軍人のような融通の利かない頑固な方だったと、父が昔話に言っていたのを覚えています。そうですか。あの田野倉さんが社長ですか」
「それに営業部長もひとり送り込んで来ます。人材銀行から来た楠本という男だそうです」
「では池袋の中川の思惑は外れましたね、ははは」
資本金二億円、年商百億円の寝具総合メーカーである野須川寝具産業の野須川俊平会長(会長は通称で、正しくは社長、五十五歳)の一人息子である野須川龍平(三十一歳)が、同社の子会社、カシオペア南関東販社の代表取締役を解任され、野須川グループからも永久追放になるニュースは、南関東販社全店が、そして野須川寝具の全従業員が、全カシオペア販社が、そして寝具業界に携わる人々の総てが知ることになった。たったひとつ良いことは、このニュースによって、天敵のミツバチ・マーヤ社が、攻撃の戈を納めたことだ。
池袋店店長の中川から、こうなったからには、一日も早く浜松町本部に移籍させてくれと言って来る。営業部長が新たに着任するとも知らず、龍平が立ち去る前から、自分が営業部長になって、早く全店長に指図がしたいのだ。中川はずけずけと言う。
「龍平さんの了解や許可を求めているんじゃないんです。そんな権限は、龍平さんには最早無いのですから。ただ、私がいきなりそちらに行っても、座る席もないでしょうから、とりあえず龍平さんの机でも空けておいていただこうと思って」
「おい、中川、何を勘違いしてるんだ。今回の人事は、牛山本部長の思惑を超えていることに、まだ気がつかないのか。俊平会長は、お前のことなど、まったく評価していない。嘘だと思ったら、今後の君の立場を、牛山本部長に確認してみたら良いさ。一年前の僕や池上への恨みを晴らそうとしたのだろうが、それに毛布担当常務の地位を奪われた牛山本部長も、自分の営業能力の無さを棚に上げ、出世街道をばく進して来た僕への嫉妬心から、君の企みに同調したのだろうが、少なくともお前の思惑は外れたな」
「何を今更ごちゃごちゃと、それを曳かれ者(刑場に曳かれる罪人)の小唄とか言うのではないのですか、龍平さん」
「お前こそ、僕に代わって、この会社を、百名までにしたプロセールスを、率いて行くことが出来ると本当に思っているのか。お前など、今後一店の出店も出来ないだろうし、現状の店すら維持できないだろう」と言い切って、龍平は受話器を電話器の上に叩きつけた。
龍平は父親が何故こんな決断をしたのかと考えれば考える程、悲しくなる。
そこへ関西販社の田岡社長から電話が架かって来る。
「隆平君、大変だね。君の会社は一億円も架空売上があったんだって。しかし考えて見れば、そのくらいはあるよな。うちでもあるかもしれない。しかし今後は百パーセント信販売上にするのだから、架空売上は出来なくなるのだ。その利益で償却すれば良いだけなのに。それで君はどうするんだ」
「家内の実家がある船橋市の中山の団地に引っ越して、東京で新たな仕事を探す予定です」
「引越、それは何時の予定なの」
「この月末土曜日に自由が丘から家財を出し、翌一日の日曜日に向こうの家に入居します」
「隆平君、その引越、ちょっと待てないのか、グループ内のどこかで君が残れるよう、僕が会長と交渉する時間が欲しいのだ」
「いいえ、それは無理です。もう今のマンションは解約しましたし、引越業者とも話を付けています。それに私はもうカシオペアでは働きたくありません」
「君はなんて短慮なんだ。変だとは思わないのか。グループからの追放など、俊平会長の意志である筈がないじゃないか。君は知っているだろうか。あの帝都紡績の次期社長と噂された谷本克彦さんが左遷されてから、俊平会長の社内の発言力が大きく後退したのを。僕は野須川寝具役員会の勢力関係を調べてみるつもりだ。もしも野須川グループから君を追放するのが、俊平会長の本心でないことが分かったら、君にもう一度電話するから、それまで引越はしないでくれたまえ」
と田岡は一方的に電話を切ってしまった。
今更、父俊平の本心を知っても遅すぎる、もう中山への引越も止めることができない。そしてカシオペアでは働きたくないのも龍平の偽らざる気持ちだった。
第四章 報復の応酬 その⑩に続く