第三章(東京と大阪)その4

(写真は現在の板橋区高島平の一風景。昭和五十二年八月、筆者率いる六名の社員でこの団地に絞って一ヶ月訪販営業をした)

翌日、あやめ池の母に龍平は電話で智代が言ったことを確認する。
母の話では、智代が突然東京に引越ししたいと言いだしたのだが、俊平夫婦としてはそれを止める理由は無い。タイミングも良いかもしれないと俊平は言っている。前々から学園前駅と阪奈道路のインターチエンジを結ぶ家の前の道路の拡張に絡んで、俊平の旧宅を買収したい奈良市と何年も折衝してきたが、これが最終回答だと、これが目一杯の買い取り価格だと、奈良市が提示してきた時でもあるし、俊平もここらで妥協して学園前の家を売る気になったようだ。
旧宅内の龍平夫婦の財産から見て行くと、智代が嫁入り時に持ってきたグランドピアノと、ツインのベッドなどの嵩高い家具は、あやめ池で暫く俊平夫婦が預かることにしたこと、その他学園前の家にある

俊平夫妻が使っていた家具類は、残すものだけあやめ池に移すことにして、他は総て廃却することに俊平が決めたということだった。
また智代は、出産の為に学園前の産婦人科を予約し、これまで定期的に検査に行っていたが、それも断って、実家の千葉県船橋市中山近くの習志野の病院を新たに予約したとのことだ。
「やっぱり夫婦は一緒に暮らすのが一番良いと思うわ」と母はこの引越に同意したことを協調した。
龍平にすれば、学園前の旧居に置いてあった昔からの家具類は、そのまま自分たちが使っていたのだから、謂わば先行した相続財産のように思っていたのが、智代の引越と共に、俊平夫婦のもとに戻されるか、廃棄されることになったのだから、なにか損をしたような気分になる。
これで広い学園前の応接間で、昔ながらのステレオレコードプレイヤーと大きなスピーカーで、好きな交響楽を聴くことももうできないのか、と龍平は嘆いた。
翌週、智代は宣告通り、東京板橋区中丸町の二DKの狭いマンションに引越してきた。持って来た家具はごく僅かだったが、それでもたちまち部屋の中は家具で一杯になり、布団は一枚しか敷けず、家具に囲まれながら、一枚の敷布団で夫婦二人が寝なければならなかった。

カシオペア南関東販社の八月について特記すべきは、目標の四百万円を達成し、十万円でも利益を出したことだ。そして龍平が事務所での仕事があって皆から遅れて一人で営業に出た日に、同じ高島平でも周辺のマンションで、五万八千円の羽毛布団を一枚売ったことだ。カシオペアでの第一号の羽毛布団の売上だ。

羽毛布団の扱いは、山崎がコンサルだった時に、彼の置き土産の企画商品で、往時全国一位の寝具訪販のミツバチ・マーヤですら、まだ扱ってはいなかった時代である。
龍平が売った羽毛布団はダウン率が六十パーセントという中級品だったが、羽毛布団メーカーの消費者直版は別にして、一般の寝具訪販の営業の中で、恐らく野須川龍平が全国に先駆け、飛び込みで、一番に羽毛布団を売ったことになるのではないだろうか。
一方、全国に十社程あった野須川寝具の毛布の代理店を、毛布よりもっと儲かるからと、俊平と牛山の二人は、カシオペア販社になろうと口説いて回ったのもこの八月だった。
食いついたのは、北海道の滝川商店と、九州の阪原商店、仙台の星の友社、沼津星の友社などだったが、それぞれが俊平の申し出を承諾し、社名並びに、業種の変更を届け、九月には、野須川寝具のフランチャイズとして、北海道カシオペア、九州カシオペア、東北カシオペア、東海カシオペアができた。
龍平が羽毛布団を売って見せたことが、これら販社にも火を点け、やがてはミツバチ・マーヤを含め、訪販会社総てが扱うようになり、信販の普及によって羽毛布団は寝具訪販の主力商品になるのだ。
羽毛布団は、高額な寝具だが、これほど耐久性、保温性、吸湿性に優れる掛け布団はなく、それを顧客に丁寧に説明する機会さえ得られれば、必ず買って貰える商品であって、日本の羽毛布団の今日の普及の空前の伸びは、その初期の段階における訪販会社のセールス努力の賜物であったと言っても過言では無いだろう。

八月に龍平が仕事上でしたことは、店の外装の壁を白く吹きつけし、「CASSIOPAIR南関東」と書いた

電飾看板を入口に取り付けたこと、これで界隈では一番のお洒落な店舗になった。
また九月からの採用で、女子事務員を一名雇用することにした。彼女は龍平には弱点の社会保険事務に明るかった。
そして九月月初に営業マンの募集広告を新聞に載せることにした。それらは総て、大阪には事前の了解を得てはいなかった。ただカシオペア事業部に、龍平が考えた新しい営業マンの給与体系を示して、その了解だけをとっただけだった。しかし牛山もまさか、それで九月の初めから東京で一般の営業マン募集をかけるとは予想していない。
龍平にすれば、野須川寝具から行った人間で、八月は取り敢えずは四百万の売上を上げたが、かなり無理をした売上であったので、その調子で九月も頑張ってくれとは、龍平でも言えなかった。
訪販のセールスは、努力すれば出来るものではなく、やはり向き不向きがある。奥様相手の営業に向いた性格の人間でなければ、採算のとれる売上はできないと龍平は考えていた。しかしこのような露骨なプロセールス頼みの龍平の考え方は、やがて中川たち野須川寝具からの出向社員たちと深い溝ができることになる。だがそれはまだ後日のことだ。
八月二十五日、給与を払ったら、天川が土曜日曜に再度泉大津に帰りたいと言い出した。妻帯者だからやむを得ないと龍平は判断し、天川だけ帰郷を許した。
ところが彼は約束の日曜日の夜に戻っては来なかった。
翌日の月曜の朝、天川は大阪の本社に出勤し、辞表を提出した。金曜の夜行で東京を発ち、土曜日早朝の環状線の中でうつらうつらとしてしまい、財布も給料袋も摺られてしまったのだ。それで単身赴任が

嫌になったのだと言う。実際は製造部門出の彼には営業の仕事がきつかったのだろう。
牛山が必死に止めたが、本人の意志は固く、結局辞表を受け取ることになった。
慌てて大阪本社は、九月に入って新たに毛布製造部から別の独身者二名を東京に送ってくる。
しかし龍平には迷惑な話だった。そんな人間が、ここでどんな戦力になると言うのだろう。
高校を卒業し、寝具の製造企業を志願して入社した若者たちに、会社の都合で主婦相手の飛び込みセールスをする部門に転属せよと言うのが、いかに無理・無茶な話だと、なぜ気づかないのか、龍平には不思議でならなかった。
今東京で営業マンの給与体系に則って、食っていける給与が貰えるのは、辞めた天川の他なら、中川一人なのだ。
八月、本社に無断で使った経費は、総て九月払いにしていた。そして九月は八月からの繰越経費を総て回収して、なお百万円の純利益を出したいと思った。そのために十名はプロのセールスを雇えたとして、その保証給与を考えると、百万の利益を出すには、一千万円の売上が必要だと試算された。
「ようし、一千万円に挑戦しよう」と龍平は、九月の販売予算を漠然と考えた。
一千万円は、今の龍平には夢のような数字だが、既に月商二千万円を目標にする田岡の関西販社と、これ以上の差が付くことも避けなければならない。
営業募集の保証給与は、ミツバチ・マーヤより三万円高い二十五万円にする。但し保証期間は入った月と翌月の一ヶ月間にした。応募者は二ヶ月二十五万が保証されると錯覚するかもしれないが、実際は一ヶ月半の保証である。しかもそれが過ぎたら、ミツバチ・マーヤと同じ率の分配になり、百万以下なら

十七万円になってしまう給与体系だ。

九月に入った。智代は出産の日が近づいたからと、既に前月末から船橋市中山の実家に行き、再び龍平は一人暮らしに戻っていた。
そして新聞の求人広告の結果が出る。

第三章 東京と大阪 その⑤に続く