第二章(個別訪問セールス)その5

(大阪市鶴見区茨田横堤の筆者の前の会社があった現在の風景、住宅公社の団地になっています)

野須川商店でも、これからの掛蒲団は最初から嵩の低いものを作った方が良いだろうと言い出した時だった。タイミングよく、東京縫機という縫製ミシンを製造する会社の営業マンが、布団の自動縫製機「コンフォーター」の試作機を売り込みに来たのだ。昭和四十一年が明けた一月のことだった。
布団の側地の中に綿を詰め、それを大きな木製の枠の中に四方から固定して、その枠を長いアームの先にミシンが付いた装置に取り付けると、その枠が真下の台についてある軌道に沿って前後左右に動いて自動的に側地と中綿を縫い付けてしまうのだ。

洋布団に比べれば、生地と綿を一緒に縫い合わせてしまう分、厚みは薄くなる。否、初めから嵩の低い布団を作る機械なのだ。
茨田(まった)横堤の野須川商店本社工場の敷地に、新築になった三階建ての事務所ビルの二階の会議室兼社員食堂で、俊平社長や腹心の幹部、牛山、井川を前にして、テーブルの上に試作機で作った見本の合掛布団を拡げ、東京縫機の営業は得意げに語った。
「野須川社長、いかがです。これからはスリー・シーズンを通して使っていただける合掛け布団を作る時代ですよ。初めから嵩を抑えておりますから、何年使っても嵩が落ちる心配がありません。しかもこれなら熟練のミシン工も不要です。パートの奥さんでも、その日から布団が作れるのですよ」
「一枚縫製するのに何分かかるのだ」と俊平。
「はい、動く枠の下には固定された板がありますが、それにつけられたレールの形を変えれば早くも長くもなるのですが、この見本通りなら三分十五秒です」
「つまりセット時間と取り外し時間を入れて、一枚四分ということか、と言うことは、一時間に十五枚、一日で百枚というところか、これは良いな。こんな機械を探していたのだ、この試作機はうちで買った。だが君、君のところでは、この機械を他の布団屋にも売ろうと言うのではないだろな。それはしないと約束するなら、君のところで作るこの機械を十台買っても良いぞ。牛山君はどう思う?」
「社長、十台で日産千枚ですか、それくらいは京都山本だけで売ってしまうでしょうね」
「一年間で何台作る計画だ?」と俊平。
「いやあ、流石に野須川さんだ。話が早い。いくら頑張っても、せいぜい十台ってとこですか」

「一年も待てる筈ないだろう。東京縫機さん、半年以内に十台ここに納入してくれ」
「分かりました、なんとかやってみます。では契約書を作成いたします」
「東京縫機さん、この布団の名前を肌フトンにしようと思う。今ふと思いついたのだ。掛布団の下に重ねて毛布代わりにも使えるよな。服の下に着るのは肌着だろ、その肌フトンだよ、野須川商店の肌フトンは今に日本全国に拡がるぞ」
井川はこれに顔色を変えて口を挟んだ。
「社長、そんな話を機械屋さんの前でするものではありません。当社だけのオリジナル商品だと思っていると、そこら中から肌フトンが出て来ますよ」
「井川君、どうせそんな業界じゃないか」と俊平は不機嫌な顔になった。
東京縫機の営業は慌てて俊平の機嫌を直さなければと、
「肌フトン! 良いネーミングです、さすが寝具業界をリードされる野須川社長です」と褒めあげた。
コンフォーター十台の販売契約を済ませ、東京縫機の営業は府道大阪生駒奈良線沿いのバス停に戻ろうと、商店街を歩く間に電話ボックスを見つける。すぐ様そこに飛び込んで、勤務先に電話した。
「あの試作機に野須川商店はすぐ食いつきました。十台契約しました。やはりあれを寝具業界は待っていたのですよ。あれは飛ぶように売れます。野須川は肌フトンとネーミングして全国に売り出そうとしています。我が社も肌フトンを自動縫製するコンフォーターと銘打って、全国に売りまくりましょう。先ずはこの一年間だけ、野須川商店に独占させておきます。彼らが肌フトンを全国に宣伝してくれた後で、私が百台以上売ってみせますよ」

因みにこの年は、龍平が兵庫県の国立大学の経営学部に入った年である。
二年前の扶桑紡績の支援で再建が始まった野須川商店だが、寝具の売上の伸長に比べ、繊維原料の商いの比重が小さくなるに従い、扶桑紡績とは、俊平が毎月三日に前月の月次決算書を持って、浜岡常務を訪ねるだけの関係となり、代わって紡績会社から合繊メーカーに変わった帝都紡績のナイロン部隊との関係が濃くなって行った。
新たに生産を開始したコンフォーター機による肌フトンによって、再び寝具の売上を元に戻した野須川商店だが、翌四十二年になれば、全国の多数の寝具工場に、同種の機械が設置され、肌フトンは野須川商店や京都山本のオリジナル商品ではなくなり、量産されて値崩れさえ起こす様になった。
俊平や牛山や井川は、新造機械に頼った商品開発の限界や問題点を思い知ることになったが、この状態は俊平たちには想定内のことだった。
彼らは昭和四十二年からこのことを予想して次の商品作りに懸かっていた。
誰も思いつかない作り方で、誰も思いつかない素材を使わねば、野須川商店の真のオリジナル商品にはならない。
俊平は考えた。せっかく肌フトンという名を付けたのだから、もっと薄くて軽くて、それでいて毛布に代わる暖かい肌フトンを作るにはどうしたら良いかと。
ふと思いついたのは、外国のベッドカバーや、ベッドの側地などに使われるキルテイングが使えないかということだ。
井川の意見を聞くと、彼も全く同じことを考えていた。

「井川君も同じことを考えていたとはね、問題は生地だな」
「そうですね、しかも量産商品に使うのだから量産出来るものに限りますが、合繊のトリコット(経編)生地はそれに適しても、それなら消費者は布団とは思わず、きっとベッドカバーだと思ってしまうでしょうね」
「やはり綿ブロードとか、綿ガーゼかい?」
「それなら夏用だけの製品になってしまいます。それに社長もよくご存じの通り、綿織物の織り幅は殆どが一メートル足らずで、布団にするには繋ぎが必要です。裏の無地は良いとして、表の柄を合わせながら繋いでいたなら手間が懸かりすぎますよ。毛布代わりになる素材はタオルでしょうか?」
「井川君、タオルなんて使ったら重くなって駄目だろう」
「タオルのあの暖かさと吸湿性とが是非欲しいところなのですが」
「なかなか適当な素材がないものだね」
「社長、市内の商社を廻って、キルテイング肌フトンに相応しい素材を、軽くて暖かくて吸湿性があって、幅が広く、量産できる生地をもう一度探してみます」
「井川君、頼むよ、簡単に思いつけるものではないから良いのかもしれない。そうでないと他社がすぐに真似て生産するからな」

数日すると井川は、野須川商店とは取引の無い、大阪の花菱商事から、ある生地の見本をもらってきた。それは花菱商事の生産基盤である足利地区で生産された、綿トリコットという素材だった。

第二章 個別訪問セールス その⑥に続く