第四章(報復の応酬) その8

(現在の横浜の国道一号線権太坂付近。この左手前方に筆者の前の会社の訪販事業部の横浜西店があった)

龍平が、総武線下総中山にある大手商社が建設したマンション団地にある妻の実家で、正月をのんびり過ごした時だ。つい気を許して義父の岩出富太郎の前で、どこか家賃の安いマンションがあれば引越がしたいなどと漏らした。
「そうか隆平君、僕も今の君たちの生活は贅沢だと思っていた。その件は僕に任せてくれないか、君たちには悪いようにはしないから」と富太郎は答えた。これが後に一波乱になるのだが、それはまた後の話である。

前期末に当たる昨年の八月三十一日に二億五千万円以上あった売掛金は、その中の正常な売掛金の入金と、信販売上率の向上と、龍平の指示での架空売上の取消で、半年後の二月末では一億円減って、約一億五千万円の残高になっていた。
内三千万円は信販売掛金と言われるものだが、締切り以後に受付された売上と、現在審査中の売上である。また売掛金の中の自社ローンの二千万円は、毎月顧客から振込があって、自動的に数か月後にはゼロになる優良なものである。
問題は残る自社ローンの一億円だ。その殆どが、顧客が買った覚えが無いと主張する架空売上とせざるを得ない売掛金だ。入金の見込みも無く、資産計上できない不良資産である。
不良資産が一億円。(今日ならこの五割アップか二倍近い金額かもしれない。)

この数字をどう見るかである。これまでの龍平の予想を大きく上回る金額だ。
しかも昨年秋から売上も低迷している。その上に、年が明けた千葉県では、ミツバチ・マーヤからの集中攻勢を受け、船橋店は開店休業状態、千葉店は売上が半減状態である。
それでも他の店で言うなら、セールスは信販の扱いにも慣れ始め、一人当たりの月間売上が信販利用によって少しずつ伸びて来ているのも事実である。八月末とは行かずとも、この年末には全額償却してみせる自信が龍平にはあった。
南関東販社が誕生した一昨年の七月からの十九か月間で、約十億円の売上を計上し、粗利も約六億円は稼いで来た。だから一億円は確かに巨額だが、粗利を六割確保できる訪販の小売業から見れば、そう深刻に巨額と認識する必要は無いかもしれないのである。
だが、製造業の野須川寝具から見た一億円は全く違う。小売業の粗利に当たるのが「生産付加価値」であって、売上対比の率はやっと二割五分だ。
それも製造労働者の賃金や、機械・建物の償却費、燃料費・水道光熱費と言った毎月の固定的な製造経費に、営業費や金利などの固定費で、その殆どが消えてしまうのである。今日とは労働者の雇用条件が違って、全員が終身雇用の月給者だ。だから来月の生産量が減るからと、急に従業員を休ませたりは出来ない時代だった。
従って売上に対する純益率は極めて低く、年商百億円を計上するに至った野須川寝具であっても、純利益は売上の僅か千分の一くらいしか出ず、それで一億円の損金の償却となると十年近くかかる話になるのだ。一億円の損金は、野須川寝具の規模の製造業にとっては、天文学的、致命的な損失になるのだ。

それが分かる龍平だからこそ、これまで一億円を軽く超えていた不良売掛金の金額を、軽々しく野須川寝具側には言えなかったのである。
そんな頃、自由が丘の自宅にいた龍平に、中山の岩出富太郎から電話が入る。
「隆平君。朗報だよ。僕の団地に住んでいた親友が、今度アメリカに転勤になってね。家族全員連れて行くことになったのだ。それで、その家を君たちに貸してもらうことにした。家賃も交渉を尽くしてね、僅か四万五千円にしてもらったのだよ。自由が丘では毎月十二万円も払っていたね。どうだ。いい話だろう。君たちが僕の近所に暮らすことで、何かと君たちの生活も、面倒見られそうだ。だから来月末で自由が丘は解約して家財を出してだな、四月月初にこちらに引っ越して来たらどうなんだ」
「お義父さん、ちょっと待って下さい。僕たちにも少し考えさせて下さい」
「隆平君、僕たちの近所で暮らすのは嫌だと言うのかい」
「いいえ、とんでもありません。分かりました。その線で宜しくお願いします」
自由が丘での生活は、僅か七ヶ月間だったが、遂にピリオドが打たれることになった。

薄氷を踏むような南関東販社の経営状態だが、トップの龍平の責任を追及する声も、そう上がっては来ず、家賃の安い住居に転居し、自分の給与を引き下げるだけで、経営者として続けられそうだと龍平が思い始めた二月の月末のことだった。
久しぶりに龍平は、池袋、横浜西、大宮、千葉、船橋、八王子、平塚の七店の店長に電話で、階下の浜松町店には直接店長に会って「来月は大きな目標を立て、頑張ってくれたまえ」と励まして回った。

ところがこの中で八王子店の原川店長だけが、上司の龍平に向かって反抗的な態度で言葉を返すのだ。
「常務、いくら常務に言われても、無理な計画は立てませんよ。今までそうやって、各店の店長に販売計画のシフトアップを毎月命令されて来たのでしょ。だからどの店も架空売上をせざるを得なかった、と私は聞いております。常務は南関東販社がこんな状態になったのに、何も反省されていないようですね。私は腹を括りました。これから大阪本社に各店の窮状を訴えますよ。申し訳ないが、常務は首を洗って、覚悟していて下さい」と言って、一方的に電話を切ってしまった。
八王子店は創建当時、ミツバチ・マーヤの現役課長だった大神が連れてきた仲間の一人が、店長候補だった大神の退職の後、しばらく店長代理を務めていたが、何か月経っても正式な店長を受けようとしないので、龍平は困って、池袋の中川店長に相談したところ、中川が最近池袋に入った有能な人材だと推薦したのがこの原川だった。原川は、融通が利かない頑固そうなところもあったが、精悍で正義感が強そうな男だから、龍平も喜んで今月から八王子店長にしたばかりだった。
原川は上司の中川から、龍平のこれまでの経営方針への批判を徹底的に吹き込まれていたようだ。中川は、この一人の部下を使って、龍平の地位を転覆させ、自分がそれに代わる機会を待っていたのである。それも事前に牛山本部長の了解も取り付けている。これは正に中川の、龍平への、昨年六月の千葉店左遷人事に対する報復である。
原川はこの後、大阪本社に電話をするのだが、中川に吹き込まれた通りのシナリオで直訴した相手は、よりにもよって俊平会長だった。
その後、俊平から次々に南関東販社の全店の店長に直接電話が入った。

池袋店の中川にすっかり洗脳されて、既に龍平から心が離れていた、千葉、船橋、大宮の店長は、八王子の原川と同じことを俊平会長に訴えた。自分たちは龍平常務の半ば強制的な指示で、セールスに架空売上をするよう誘導してしまったと証言した。八王子、千葉、船橋、大宮の店長は、中川から四月になれば、龍平が南関東販社から解雇されているだろうと吹き込まれていたのだ。架空売上に対して龍平常務からの指示は全く無かったと証言したのは、浜松町、横浜西、平塚の三店だけだった。

三月に入るといきなり、統括事業部、牛山本部長の下に出来た販社監査チームを率いる近藤部長以下十名のスタッフが浜松町本部にやって来て、龍平や本部スタッフに宣言した。
「今日から十日間くらいの日数をかけ、南関東販社の業務監査を行います。本部スタッフは私たちが席に戻って良いと言うまで、どこか別室に移動してください」と全員本部の部屋から追いだした。部屋に残れたのは、一月に大阪からやってきた専務の児島以下二名だけだった。
龍平には「これから十日間、出社しないか、それが都合悪ければ、横浜西店にでも移動して下さい」と、自分は大阪の俊平会長の代行なのだから、と前置きして近藤は指示をした。

近藤監査チームは最初の五日間で帳簿をひっくり返し、自社ローンの売掛金の内容を精査して、後の五日間は各店を回って、セールスからヒヤリングを行った。
近藤チームは、監査の結果も言わず、また龍平の弁明も一切聞かずに、黙って大阪に帰って行った。

一週間ほどしたら、浜松町本部に戻った龍平に本部長の牛山から電話が入る。
「隆平君、君はえらいことをしてくれたな。なんと不良売掛金を一億円も作ったそうやないか」
「本部長、何を仰るのですか。半年前は一億五千万円以上あったのを、毎月償却して来たのじゃありませんか。それは本部長もご存じの筈では」
「何言ってるのや。僕はそれで架空売上は全部消えたと思っていたんや。それがなんや。まだ一億もあったのか。僕は聞いとらんよ、そんな話は。役員会で君の懲戒免職と野須川グループから追放が決まったから、そのつもりで。四月最初の営業日、二日月曜日の朝九時に、淀屋橋に来いと会長が言っておられる。伝えたよ」
「その日は私の引越なんですが」
「そんなこと知るもんか。君のお蔭で、こちらが潰れるかもしれないんや。お父上も何某(なにがし)かの責任をとられる筈や。じゃ四月二日に」

第四章 報復の応酬 その⑨に続く