第四章(報復の応酬) その5
(十一年前、最初の霊園は九割まで墓地の販売が進んだところで、晴れて府の許認可を頂き、羽曳野市内に土地を求めた第二霊園の第一期造成工事を始める地鎮祭を行っている写真。玉串奉奠をしているのは第二霊園の土地の収用でお世話になった不動産屋さん)
龍平の野須川寝具産業の役員という立場にも、又龍平の人生そのものにも、大きな汚点が付いてしまった昭和五十三年の秋、野須川寝具産業の役員会が龍平を処分しなかったのは、実はそれどころではない深刻な事態が発生したからである。その問題について話をする前に、触れておかなければならないのは、これも時を同じくして起こった、九州カシオペアの社長の持病がもとでの急死で、訪販事業への転業以来、好調に来た販社だけれども、最早会社経営の継続が出来なくなって、野須川寝具産業には大きな痛手となったことだ。
毛布卸業からの転業で、カシオペアの看板を貸しただけのフランチャイズだった。だから社長の死と共に、遺族が九州全体に拡がっていた営業拠点を財産相続を求めて、総て処分されても、野須川寝具として口を出す訳には行かない。
野須川寝具カシオペア統括事業部として出来ることは、福岡店だけに人材を派遣して、それを直営店として残すことだけだった。
そして野須川寝具産業にとっては、それとは比較にならない深刻な問題の発生である。
実は龍平がその問題に繋がる発火点を見つけるのだ。浜松町駅の売店で売られていたある週刊誌に、龍平の眼が釘付けになった。
表紙には幾つかの特ダネのタイトルが表示されているが、その中に「次のテイボーの社長と期待される男、谷本克彦」とある。慌てて龍平はその週刊誌を買う。
その記事は、ほんの見開き二頁で、なんということも書かれていなかったが、嘗て太平洋商事大阪本社で三年間のサラリーマン生活の体験をした龍平だから、週刊誌にこのような記事が載ることの重大性は、よく認識していた。もしも太平洋商事なら、すぐにでも谷本常務は解雇だ、きっと帝都紡績でもそれは同じことでは無いだろうか、と龍平は直感した。
すぐ公衆電話から、大阪の野須川寝具の役員たちに電話をする。ところが、俊平を含め、役員たちの危機意識は実に鈍い。
中小企業の経営管理者は、どうやら大企業のサラリーマン組織がどんな世界なのか、よくは分かっていないようだ。
谷本常務が帝都紡績の次の社長になる人だ、なんてことは、この業界にいる者なら、誰もが知っていること、それの何が問題なのだ、くらいの認識だった。
だが事態は、龍平の恐れていた方向へと動き出す。テイボー五稜郭経営を進め、今やテイボーグループの独裁的な経営者である井伊章二社長は、その地位を禅譲する気などはなく、部下の谷本に怒りを爆発させ、彼の常務取締役を剥奪し、帝都紡績系列の小さな繊維機械の販売会社の社長に左遷してしまった。
そして井伊社長は、同時に担当常務が不在になったアクリル総部の営業実態の総点検を命じる。
これが翌年春から毛布の備蓄体制やシステムが、がらっと変わることに繋がって行くのである。
また谷本常務の更迭に関連して、帝都紡績との合弁会社だったカシオペア中国販社も解散になり、その中の広島店だけを統括事業部は直営店にして人材を派遣した。
この頃、東北カシオペアの経営も売上不振で行き詰まり、営業の停止状態に陥った。統括事業部はなんとしても仙台店だけは残したく、北海道カシオペアに人的支援の相談を持ちかけていた。
カシオペア販社の全国の売上は、八月には五億円に上ったものの、北陸、九州、中国、東北が壊滅状態となっては、北海道、北関東、南関東、東海、中共、関西だけの売上となり、四億前後にまで売上が落ち込むようになっていた。しかし今の野須川寝具産業としては、売上よりも、カシオペア販社に際限なく出て行くようになった、運転資金の流出を止める方が急務になり始めていた。
東京にいる龍平が知り得る事実は、そこまでの話だ。
谷本克彦が帝都紡績の常務を解任され、子会社の社長に左遷されることは、龍平にも衝撃の事件だ。谷本克彦夫妻が、龍平と智代が結婚した時の媒酌人だったからだ。
最初、龍平の花嫁候補として谷本常務が、俊平社長に持って来た縁談は、揃って上場会社の社長令嬢ばかりだった。息子の嫁にと求める女性は、もっと普通の家庭の女性だと、俊平が頭を下げて谷本に説明したことで、谷本常務夫人の芦屋夫人の親友の知り合いから、東京にいた智代が、龍平の花嫁候補として白羽の矢が立ったのであった。
東京の龍平には知らされなかったが、俊平とは昔からの無二の親友だった谷本克彦が帝都紡績を去るという事態の受け止めは、野須川寝具産業の役員たちよりも、野須川寝具に与信限度を設けて商品を売る商社や、融資をしている大手銀行の方が、実は事態を更に深刻に受け止め、動き出していた。
例えば龍平が大学卒業後三年間お世話になった太平洋商事大阪本社が、まさか手のひらを返し、野須川寝具との寝具や毛布の原材料の商売の与信枠の縮小、即ち商売の金額の段階的縮小を申し入れて来る。太平洋商事は野須川寝具の前身、野須川商店時代からの取引相手で、俊平とは最も親しい取引先ではあるけれども、親しいということと、与信枠の設定とは、全く別の問題だと、非情な冷徹さで取引相手を見る商社だった。
龍平が三年間の太平洋商事でも勉強を終えて、野須川寝具に入社した前後に、野須川寝具で始まったテイボーアクリル使いの毛布の生産の開始は、帝都紡績と関西系の都銀、井筒商事との共同出資に助けられたもので、泉州忠岡の工場建設には、五年の期限で都銀の花河銀行が全額の融資を引き受けたから実現したものだ。その井筒商事までが、出資した一千五百万円を返してくれと、しかも野須川寝具との取引も停止したいと言って来た。
また都銀の花川銀行までも、後半年で毛布工場財団を創った時の融資の返済が全額終わるけれども、融資は復活するつもりはないと、完済の暁には工場財団に設定した担保を解除する旨を連絡してきた。
野須川寝具の外部の環境は、かくも薄情なものだったが、俊平を始め、野須川寝具の方では、実は谷本常務の更迭をさほど深刻な事態とは認識していなかった。何故なら、テイボーアクリルの最大の購入者である野須川寝具産業を、いくら谷本常務が更迭されようが、今更帝都紡績が突き放せる筈もなく、野須川寝具産業に新たに与信枠を開く商社だって、一日も早く探さねばならないのは、野須川寝具よりも、帝都紡績の方だと思っていたからだ。
これまで俊平は、自社の毛布事業部の面倒を見てくれる帝都紡績アクリル担当谷本常務と、カシオペア事業の資金繰りを見てくれるなみはや銀行の山村頭取の二人に支えられ、年商百億企業にまで事業を伸ばして来たのだが、谷本が去っても、なみはや銀行のカシオペア事業支援の方針が、微動だにしなかったことで、野須川寝具産業はかろうじて信用を保っていた。
とは言え、なみはや銀行の融資枠も担保設定額を超え、信用貸しの領域に迄達し始めていたのだから、社長の俊平としては、もしもそれをすることでカシオペアの売上が更に減少しようが、販売法の改革には絶対に取り組まねばならなかった。
それは自社の資金で割賦販売するのを止め、クレジット会社と組んで信販で販売することだ。信販会社が顧客に売った商品の売掛金を買ってくれるなら、契約の半月後か一ヶ月後には全額信販会社がその債権を立て替えて振り込んでくれる。だがもしも信販が買わない債権が発生したら、顧客から強引に商品を引き上げる覚悟が必要だった。
第四章 報復の応酬 その⑥に続く
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