第七章(終わりなき闇夜)その8

 

(筆者が大学を卒業し、三年間働いた伊藤忠商事が入っていた御堂筋北久太郎町のビル。伊藤忠が大阪万博に合わせ、南御堂からこの地の地上権を得て、十三階建てのツインビルを建てた。自らは堺筋本町から移転して南棟に入り、北棟は貸しビルにしていた。現在伊藤忠商事は大阪駅ビルに移転している)

土地の売買を除く総ての商取引に、取引額三パーセントの消費税の課税がスタートする、平成元年(一九八九年)四月一日となった。
物品やサービスを購入するには、総ての人が公平に三パーセントの税を乗せて買わねばならないことは誰でも理解出来る。但し顧客から預かった消費税を事業者がそのまま納税するのなら、話は単純だが、仕入代金にも当然消費税が含まれるし、人件費は除いて総ての経費に消費税が含まれるのだから、納税金額を算出するには、入って来た消費税を集計して、支払った消費税を集計して差し引かなければならない。かなり以前から勉強する時間はたっぷり与えられながら、税法に則った自分の事業所の消費税納税額の計算方式を理解する中小企業の経営者は、一体どれだけいたことだろう。
納付すべき消費税の算出方法が周知徹底されるまでの当分の間、税理士が日常的に経理を見ている訳ではない零細企業群については、業態毎に、売上の一定比率を掛けて課税するといった簡便法による納付が公認されることになった。
また顧客がバスケットに容れた商品のバーコードさえ読めば、あるいは単品毎の小売価格を打ち込めば、自動的に消費税込みの合計金額が計算されるレジスターは、百貨店や大型量販店にしか普及していなかったから、それ以外の多くの小売店は、バス、タクシー、電車代金などのように、釣銭が細かくならないよう、逆に「税込価格」をラウンドな数字に調整して、それを商品毎に表示するしかなかった。
こんな場当たり的なスタートだったから、顧客から預かった消費税をきちんと納税していたのは、当初は大企業だけだったということになるだろう。

数日後、浪銀ファイナンスの秦田社長が、八幡工場前半分の土地建物を購入する最終ユーザーが現れるまでの間、一時的に抱いてくれる大阪の建設会社、栄光建設の社長を伴い、野須川寝具の四ツ橋事務所に俊平会長を訪ねてやって来た。
栄光建設の社長は、龍平よりは年上で、俊平よりはずっと若いようだが、ゴルフ灼けした精悍な顔立ちで、眼光は獲物を狙う鷹の様に鋭かった。
俊平と名刺を交換し、十分くらい話をした後、この後予定が詰まっているので、と断って秦田を残して先に帰った。
秦田は機嫌の良さを満面に表しながら、俊平に語り掛ける。
「俊平会長、栄光建設の社長は頼りになる人物ですわ。そうは思われませんか」
「そうですな。二十四時間、金儲けのことを考えているような人ですね」
「実際、彼は毎月何億もの利益を上げていますから。彼だけではありませんわ。最近、私の相棒になって市内の土地の地上げや買い付けに走り回ってくれている松野興産の社長だって、ノーブル浪一の社長だって、皆揃ってあんな社長たちですわ。毎日、金儲けのネタを真剣に探しながら、分単位で仕事をしていますねん。比べると失礼ですけど、龍平さんの仕事ぶりは、まだまだ生ぬるいというか、現代の企業並みに、自分も儲けて行こうという気概が見られませんな。俊平会長、寝具製造の仕事が儲からないのなら、いつまでもそんな仕事に執着することも無いのと違いますやろか」
「恐れ入ります。私が龍平を今まで甘やかしすぎたのかもしれません」
「製綿プラントの移設は大丈夫ですね」

「はい、間もなく作業が始まりまして、六月中旬には終了している予定です」
「順調で結構です。すると一番下の商社の抵当権の件が落着し、栄光建設との受渡が終了すれば、俊平会長は、八年掛りの和議弁済から解放されることになりますわな。あの五億円の抵当権の中で、裁判所が別除権(正当な担保権)と認めたのは、いくらでしたっけ」
「二億三千万円でした。つまり八幡工場の価値を十二億円と見做されたのです」
「それは往時やったら高く見過ぎですわ。そうでもしないとあの商社が黙っていなかったからでしょうな。本当は全額和議債権や。だから一億円で済ませるのが妥当なのですわ」
「残る後ろの工場に残った四億の担保を付けろと粘っています」
「勝手に言うとけやですわ。さて、和議以後に処分され、弁済の終わったのが、三億二千万円の抵当権が付いていた守口配送センターと、なみはや銀行と帝紡とで合計一億円くらいの担保が付いていた、販売店賃借敷金や、淀屋橋本社の敷金でしたな。この六月に八幡工場のこれまでの抵当権が外され、なみはや銀行和議債権の支払い分までが消えれば、残るは丹南町の調整地域に付いた、なみはや銀行の二億八千万円の抵当権、大分県の山林に付いた同行の三千万円の抵当権と、こちらは払う気の無い帝都紡績の二億余りの和議債務と、その他雑多な企業群の和議債務ですか、それ、いくら残っていましたっけ」
「一億円弱になるかと」
「一社平均何十万円ですやろ。もうそんな債権を、弁済が中断して四年になるのに、今更請求してくる企業などありませんわ。それに倒産の原因を作った帝都紡績には、最後の最後まで払わないでおきましょう。これで八年越しの和議弁済は実質終わったのですわ」

「そんなことを言ったら、罰が当たるんやないでしょうか」
「いいえ、俊平会長は、ここまでよく弁済して来られましたよ。この八年間に、三葉信託、寧楽銀行、阪神信金には全額弁済され、この六月で更に上方銀行にも全額弁済され、なみはや銀行にも累計で十億以上お返しになるのですよ。少しくらい不義理しても罰なんか当たりますかいな。それで、お願いなんですが」
「何でしょう」
畑田は俊平の傍ににじりより、事務所にいる従業員たちに聞こえないような小声になった。
「ゴルフに誘っていただけないかと。実は彼女ができましたんや。これがゴルフ、なかなか上手いんですわ。確か会長、昔は会長の良い女性(ひと)と、よく一緒にゴルフなさっておられたとか」
「そんなこと、誰が言っているのですか」
「隠さなくても、あの口の固いうちのボスが、ポロッと教えてくれたんですわ。お二人とも同伴ゴルフだったとか。と言っても、山村の同伴者は新地のママかホステスくらいでしたやろが、会長の同伴者は生活も看ておられた正真正銘の彼女やったとか、ゴルフが上手な方やったと聞いていまっせ」
「その女性は、和議を出す少し前に嫁にやりました」
「でも今でも連絡くらいは取っておられるのでしょ。なんとかその女性(ひと)をゴルフ場に引っ張り出してくださいな」
「せっかくのお話ですが、それはいくら何でも無理というものでしょう」
「会長、そろそろ人生を楽しみましょうって。まあ、考えておいて下さい」と秦田は帰って行った。

数日後、俊平は龍平を呼んで、翌週から龍平の妹の夫の加藤が営業マンとして勤めることになったことを告げた。加藤は龍平より少し年上で、ずっと生地業界にいた人間だ。龍平の妹とは最初の職場で知り合った仲だった。その職場が廃業した後は、職場の独立組の会社に席をおいていたが、そこもやがて廃業となって、自分一人で生地のブローカーをしていたのを、俊平が拾ったのだ。
俊平は給与について、彼が戦力になるまでの数ヶ月間、龍平に給与を六掛けにしてくれと言い出した。これで一番給与が高いのは工場長の関田で、その下に龍平、池田、加藤の三名が同じ二十七万円の給与で働くことになる。
仕事で作った内緒の借金の金利は、龍平が個人で払うことが多かったので、給与の減額は困ったが、そんなことは俊平には言えず、年度末の八月までのことだろうと龍平は黙って辛抱することにした。
娘婿の加藤が入社する日の朝が来た。いつになく俊平はよく寝られた。こんなにぐっすりと休んだのは八年ぶりかもしれない。考えて見れば、和議を出した自分が、社内の一番の稼ぎ頭ではないだろうかと思った。和議を出した時点で、二十数億の債務が法的に無くなった。そして時が経過し、今又新たに数億円の債務を消してしまおうとしているのだ。和議法とは、何と良い法律なのだ、これから元カノとゴルフをするのも良いかもしれない、とにんまりしながら目を覚まして辺りを見回した時だ。
右の目の映像に蜘蛛の巣がかかっている。蜘蛛の巣は自分の目の中にあることはすぐ分かった。
一体、これは何なのじゃ。俊平は掛かり付けの医者に行った後、中之島の国立大学病院の眼科に緊急入院した。診断の結果は、右目の網膜にブドウ球菌が入ったとのことだった。

 

第七章 終わりなき闇夜 その⑨ に続く