第十章(自分が変われば世界が変わる) その5
(小説に登場する丹南メモリアルパークのモデルである、美原ロイヤルメモリアルパークでの最初のガーデニング墓地企画の成功を受けて、後に拡張した墓地の中に筆者の設計によるガーデニング墓地を造った。全国から業者の見学があった成功例である)
中村商事が不渡りを出した三月二十五日、龍平は名古屋今池の中村商事に駆けつけたが、話をしたい中村社長は、社長室で債権者一人一人と話をしていたから、龍平が会える順番は夜八時を回った。
中村商事は野須川寝具が帝紡毛布を生産し始めた時の毛布の名古屋地区代理店だ。後に寝具訪販のカシオペア事業が始まった時に、当然ながら中京地区の販社になってくれないかと俊平に頼まれたが、中村は往時、既に五十歳近かったし、自身消費者直販は好きではなかったことから、カシオペア販社をつくる件は断った。
その後、野須川寝具が羽毛布団や固綿敷布団を作るようになって、毛布専門問屋から寝具総合商社へと発展して行き、名古屋今池にビルを構えるまでに業容を拡大していた。龍平とは親子程離れた歳を超えて、親しい飲み仲間であり、サウナ仲間であった。
龍平もかつては、中村から何度も商売の手ほどきを受けていたのである。
中村は「自分の会社に破産をかける債権者はいない」と言って、来月も変わらず営業を続けて行くつもりだと負け惜しみを言う。更に「今後は手形払いでなく、現金払いで行くから、高崎商店とテレビショッピングの二つは、旧来通り、儂を通して商売してくれ」と龍平に頭を下げて頼んだ。
誰もが今持っている中村商事の手形が全額損金になるのを避けたがっている。その欲を利用して中村は時間を稼ぎ、債権逃れを考えているように見えた。
先ずはそんな現金があるなら、今日の手形不渡り事故は起こっていない。中村は嘘をつくのが平気になった。龍平は即座に断り、不渡りになった手形と今後支払いを求める手形と合わせた債権二千万円を、どうやって野須川寝具に弁済してもらえるのか、計画案を糾した。
中村からはまったくそんな案は出て来ない。であればこの会社は和議ではなく、更生法でもなく、やはり破産を債権者にかけられるか、任意整理しか残っていないことになる。
中村は野須川寝具に払った中に、商品を預けたままになっているのが数十万円もあることを思い出した。それは直ちにこちらに送るよう龍平に命じる。
龍平はこれにも冷たく拒絶する。一銭の回収の見込みもない今、損失を増やしてまで、商品預かり時の約束を守る者などあろうはずがないだろうと龍平は思った。本日の決済期日だった五百万円程の手形は、間違いなく期日通り決済しますという約束を先に破ったのは中村商事なのだ。
いくら話し合っても、「暫くは助けてくれ」「弁済方法を示して下さい」と、二人の話は平行線のまま、噛み合わなかった。
「龍平さん、すっかり人が変わってしまったね。昔はもっと人情のある人だったのに」と中村は、時間の無駄だと後ろを向いて帰ろうとする龍平にぽつりと言った。
龍平は断腸の思いで中村商事を後にした。名古屋駅から俊平に状況を報告する。
余裕のない資金繰りの中で霊園開発を進める野須川寝具には絶対あってはならないことだが、中村商事の手形を野須川寝具が裏書きして、なみはや銀行で割引しているのと、箕面船場団地の生地問屋に、生地代として回し手形で払っているのを合わせると、手形買い戻しに二千万円もの資金が必要になったと報告した。
その二千万円は今すぐにでも両社に弁償しないと手形裏書人のこちらが逆に破産をかけられることは、龍平にも俊平にも分かっていた。
龍平は、但し数十万の商品未出荷があったことと、中村商事との取引が無くなることで償却すべき資材在庫等はなかったから、損失は一千九百万円台になることも付け加えた。それでも野須川寝具にとっては大きな損失だ。
最後に「ほんとうに申し訳ありませんでした」と俊平に謝った。
俊平は、何もコメントせず、詳しくは明日朝、会社で聞くと言って電話を切った。俊平は常に自宅で仕事のごたごたの話は聞くのを嫌がった。
翌朝、龍平は再び俊平に「申し訳ありませんでした」と、俊平にどけ座して謝ってから、詳しい報告をした。
いつもの俊平なら、ここでどんな大声を喚き散らして、龍平を責め、なじったであろうか。しかし古希の誕生日を二ヶ月後に控えるような歳になったからだろうか、この日の俊平は違った。俊平は穏やかに語った。
「おまえだけが悪いのではない。おまえは前から中村商事は財務内容に問題があるから、商売はしない方が良いと、むしろ西日本健眠産業の取引を伸ばさなければならないと言っていたのを、儂がおまえの言葉に耳を貸さずして、西日本健眠産業との取引を断ってしまったのだ。これだけ大きな損失が出てしまったのは儂のせいなのかもしれない」
龍平は驚いた、父親からこんな言葉を聞くのは初めてだった。
いやしくも企業と称する組織なら、たとえ事故の根本原因がトップの方針の誤りであったにせよ、事故を起こした現場の営業責任者が責任をとるのは当然のこと。だから腹の中では俊平のせいだと思いながらも、龍平は先ずは冷静になって何度も上司に謝ったのだ。
龍平の目頭が熱くなった。
再び俊平に「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた龍平は、父親の思いを知って、心から感謝の気持ちを持てるようになった。父親のことは誤解していたのかもしれないと思った。
四月にはテレビ局にテレビショッピングで売れた敷布団を出荷し、代金を局から振り込みで受け取った。高崎商店にも直接商売し、龍平が高崎にまで行って、高崎商店の手形を集金した。
俊平が霊園開発の為に寧楽銀行に頭を下げて借りてきた資金から二千万円を使って、先ずはなみはや銀行の中村商事の割引手形を買い戻し、四月末に生地問屋に回していた中村商事の手形を買い戻しした。
これで、昨年十月からの生産品目を指圧型敷布団一本にして、売上のレベルを急降下させることで発生する資金不足の二千万円と合わせて、俊平は龍平が担当する本業部門の為に合わせて四千万円の資金を使ったことになる。
龍平は俊平に心から感謝した。
父親への感謝の気持ちが増して来ると、自分には父親に秘密のことがあるとの思いが自分の心を更に苦しめるのだった。
俊平はぽつりと言った。
「これで造成工事が始まっても、土木業者にまともに契約金も払えなくなった」と。
坂下が振り込んできた三億円に、俊平が寧楽銀行あやめ池支店から個人名義で借りた二億三千八百万円、合計五億三千八百万の霊園事業準備金の中から、既になみはや銀行に三億五千万円を、浪銀ファイナンスにも一億近い金を返し、宗教法人を創立者から買った金の、本田が出した分と俊平が出した分の合わせて三千万円が返金され、霊園の経営許認可をとってくれた黒田グループにもその謝礼を払っていたから、そこに龍平の事業に四千万円使ったので、確かに俊平の手元にはもうそう多くは残っていない筈だった。
三月、四月と桜台西自治会との霊園設計の議論が続いた。
四月の末には新しい丹南メモリアルパークの設計図が完成した。
それを確認して、自治会は五月に入ったら、自治会と宗教法人香川大社の間で、霊園丹南メモリアルパークの造成工事に関する協定書を結ぼうと言う話にまで順調に進んだ。
五月の日曜日の午後だった。
桜台西自治会の集会所で、たくさんの住民が集まる中、自治会と香川大社との間で、霊園工事に関する協定書の調印式が厳かに行われた。
しかし、その後、下村区長は協定書を交わしておきながら、同意書を一向に出そうとはしない。
桜台西地区から同意書が出て来るのを待つしか、術がなかった。
さて話はバブルの時代に戻るが、その頃、泉州で靴下業を営む山本という丹比地区の住民がいた。バブル景気とはどこに吹く風で、靴下も寝具と同様、東南アジアからの輸入品に押され、儲けるのが難しい業種となって、山本は本業だけでは食えなくなって、日曜日にアルバイトに出ることになった。
そのアルバイトというのが、民営霊園に墓地を買い求めに来る人の注文書をとることだ。
ある霊園の営業権を持つ石材店のオーナーから販売図面を渡され、契約書を交わしたら契約金をもらってくれ、その金額が多いほど後でキャンセルがないと教えられ、机とその下に置くミカン箱と、椅子ひとつを持って、ある日曜日の朝早くからその霊園に出かけた。
往時は日本中の土地の価格が常識外に高騰し、今買っておかなければ、子孫の代まで土地は買えないと言われた時代だ。だから墓地だって同じ事。今墓地を買っておかないと、とんでもない値段になるぞと脅され、墓地を持たない人は我先に墓地を買い求めた時代であった。
山本が霊園の空き地に机をおき、その下にミカン箱をおいて座るなり、たくさんの人がわっと周りに押し寄せてきた。
「一列に並んで下さい」と言うと、並んでくれたが、瞬く間に長蛇の列になった。
とてもひとりひとり現地を案内している訳にはいかない。だから山本は図面の上で墓地を指さし、並んだ順番に左から図面上で買ってもらうしかなかった。それでも誰も苦情は言わない。契約金はできるだけ多くとった。中には一万円しか出さない者がいた。
山本は言った。「あんた、財布見せんかい。なんや、ようけ入っているやないか。どうせ払わなあかん金や。これ全部申込金でいれときやと、中身の札をむしり取ったそうだ。
そんなことをしていると、並ぶ列の後ろの方から「いつまで待たなあかんのでしょうか」と大声を出す人がいた。
山本はすかさず言った。
「もしお急ぎやったら、どうぞそっちへ行っておくんなさい」
山本は足下のみかん箱を見た。一万円札が箱一杯になりそうだった。「これはいかん。まだまだ客は並んでいるんだ。そのうち溢れるやないか」と山本は慌てて靴を脱ぎ、一万円札の山を足で踏んだとか。バブルの一瞬の時代の話である。
山本には異次元の世界だ。「もう靴下屋なんか、やってられるか。霊園のオーナーにはなれんでも、儂は墓地と墓石が売れる石屋になってやるんだ」
山本は自分が住む丹南町の丹比地区にある村墓地に決まった石材店がいないことに眼をつけ、村墓地の入口に店を出して山本石材店を開業することになった。
葬祭業界には不案内だった山本は、藤井寺の黒田グループの配下にも入って他の石材店から妨害されぬようにした。墓地埋葬法も勉強した。このようなしたたかさは、繊維産業に従事した者ならではのことかもしれない。
それから四年の歳月が流れ、丹比地区と桜台西一丁目の間に新しく霊園を開発しようとする人が現れたこと、しかも面白いことに、その霊園は経営許認可を最近とっていながら、まだ付近住民の同意書はとっておらず、それが無ければ、造成工事にも入れないと言う話を黒田グループ内で聞いてきた。
「これは地元に住む儂の千載一遇のチャンスだぜ」と、同霊園の工事に入る条件である同意書が必要な隣接三軒の家に、事業者がまだアタックしていないことを掴むと、近所のよしみでこの三軒から、業者と交渉する権限を山本石材に譲る委任状を素早くとってしまった。
そして隣接三軒は、丹南メモリアルパークの建設に反対すると公言したのだ。
この三軒以外には所属住民の中に申請地の近くに住む住民がいなかった申請地北側の丹比地区の、井川区長は桜台西との協定を済ませた事業者に、自分も同意書を出してやろうと思っていたが、肝心の隣接三軒が反対意見だと知って一挙に尻込みしてしまった。
また桜台西自治会の中でも、協定書を交わした自治会幹部に抗議を申し出る住民も出て来て、こちらも同意書を出すどころではなかった。
第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その⑥に続く