第三章(東京と大阪)その8
(現在の東武東上線大山駅)
出店の話が一段落したのを見計らい、池上は腕時計を見ながら智代に神妙に頭を下げ、小面原を誘ってそそくさと帰って行った。
龍平は智代に再来月からまた別居暮らしになることを伝えた。
「大事なお仕事なのだから仕方ないでしょう。また雅代を連れて中山の実家に居候しますから、私たちのことは心配しないで」と智代は笑顔を作って見せた。
十一月の一か月間、池袋店の中に横浜店を作ってセールスを競わせる作戦は大成功だった。難なく二千万円という売上目標が達成できたのだ。
その頃、名古屋に直営のカシオペア中京販社が誕生し、帝都紡績から派遣され、毛布工場長を五年務めた西村が社長として赴任する。そして宇都宮には直営のカシオペア北関東販社が誕生した。代表者は南関東販社と同じく、俊平が代表取締役だが、現地責任者の常務取締役として途中入社同士で龍平と親しい多賀信也が赴任した。
また彦根に帝都紡績と合弁のカシオペア北日本販社が、広島にも帝都紡績と合弁のカシオペア中国販社が誕生した。
その頃になると関西販社も複数の店舗を運営するようになり、先発のフランチャイズの北海道カシオペアも道内に複数の店を運営するようになっていた。
俊平の寝具製造直販会社として全国を制覇する大きな野望が、少しずつ実現に向かって進んで行く。
大阪・兵庫・京都の関西三府県の寝具訪販の市場では、先発の「ミツバチ・マーヤ」と後発の「カシオペア」と、同じく後発の「おふとん屋」の三社が激戦を展開していた。「おふとん屋」の代表者は、あのミツバチ・マーヤの関西支社長だった藤崎であり、カシオペア関西販社の社長は枕屋だった田岡だが、幹部連中は元日寝の営業マンたちである。
この幹部らが言うには、優秀な営業マンの募集は松原の様な郊外ではなく、都心でこそするべきだと、カシオペア関西の本部を松原から都心に移動すべきだということだ。
親会社の野須川寝具産業が、大阪の東の端の鶴見区茨田(まった)横堤に本社を置くのだ。それなのに、子会社が親会社を差し置いて都心に出るなぞ、許されようか、スーパーの失敗以来、慎重で控えめになった田岡が、そんな大それたアイデアに乗り気でないと分かると、彼らは野須川寝具の本社に押しかけ、俊平社長に直談判するようになった。
十一月は、半分の日数は営業に出た中川だが、後半分は龍平から本店を預かる者としての、経理、管理、総務業務の指導と引継ぎを受けた。高校卒業後、営業一本道で来た中川真一にとって、生まれて始めて習うことばかりである。
一方、龍平は全く営業には出ず、横浜店配属のセールスの指導は専ら池上に任せていた。中川に本店業務を指導する以外の日は、総て横浜に出かけ、新店出店の準備に当たった。
横浜西口ステーションビルでの求人面接が出来たのは月末に近かったが、二十名以上の応募があったので、選り取り見取りで訪問営業の経験者に絞って五名を採用した。
十一月の月末、売上を締めると直ちに龍平たち横浜組は横浜へと赴任して行った。
十二月に入ると、中川真一は会社の雑務に追われ、仲間と一緒に営業に出るのは断念せざるを得ない状況だ。
ところで中川真一は不思議な気持ちになっていた。自分が何か偉くなったと実感し始める。ずっと今まで学が無いから営業しかできないと自己限定して来た。自分は逆立ちしても会社経営なぞ出来ないと、それは自分と全く関わり合いの無い雲の上の世界だと。
龍平の指導が良かったのか、中川真一はすらすらと会社経理の知識を身に付けて行く。
「俺は偉くなった」と新たに置かれた店長机に座って真一は呟いた。それを実感したのは、コンピューターのプログラマーの大山の言葉使いが、店長に決まったその日から敬語に変わったからだ。もっと変わったのは事務員の梅木美津子だ。営業の時は口もきかなかったのに、自分から朝の挨拶をするようになった。しかも身の回りの世話までしてくれる。
「苦労して来た甲斐があったというもの。龍平さんは俺を腹心と頼りにしてくれていたのだ。有り難い。思わぬ良い上司に恵まれたのかもしれない」と真一は自身で頷いた。
そこに大阪から龍平に電話が入る。統括事業部本部長の牛山からだった。
「牛山ですが、龍平君はいるのかな?」
「あっ、本部長ですか? 私ですよ、中川です」
「ああ、中川君か、懐かしいな。元気のようだね。そうか龍平君は横浜店だったな」
「待って下さい。折角だから私の池袋店にも何か仰って下さいよ」
牛山は龍平に連絡することがあって、早く横浜に電話を架けたかったが、思い直して中川の話を聞いてやることにした。
牛山が野須川寝具に入社したのは昭和三十七年で龍平が中学三年生になる時だ。京都府一番の私学を卒業し、在学中ESS部にいた彼は、一時期、龍平の英語の家庭教師を務めたこともある。往時、彼は頭脳の優秀さによって、野須川俊平の後継者に最も近い人物だと言われた。
ところが龍平が国立大学を卒業し、三年間、商社で修業した後、野須川寝具に入社してからは、俊平社長の牛山を見る目が明らかに変わったと牛山は感じている。
龍平がそのまま太平洋商事にいてくれておりさえすれば、と牛山は何度も思った。
しかし牛山の評価を直接下げたのは、毛布事業部本部長時代の社外評価の低さだった。他人の為に自分を犠牲に出来ない性格が災いしたのだ。加えて東京赴任から勝手に離脱したことがダメ押しになった。いずれも龍平とは関係のないことだ。
今となっては、一人で南関東販社の業績をここまで伸ばした龍平を、俊平も評価せざるを得ない。それが牛山の不満をどれだけ鬱積させることになろうとも。だから龍平のことを常務などとは、牛山は口が裂けても呼びたくなかった。
龍平に嫉妬していた牛山は、龍平を貶める謀略がふと頭に浮かぶ。
「中川君は龍平君とうまく行っているのか?」
「はい、常務は私のことを大事にしてくれています」
「本当かい? 彼の人間性をよく知らないから、そんな殊勝なことを言っておられるのさ」
「牛山本部長、それはどういう意味でしょう?」
「今日は忙しくてそんな話をする暇はない。いずれ分かるさ。また改めて電話するから、今月の健闘を
祈るよ」と牛山は電話を切った。
中川は牛山の言ったことを暫くは気にしていたが、やがて忘れてしまった。
昭和五十三年が明け、横浜店では一月から池上が店長に昇進したが、龍平は二月末までそのまま横浜から帰らずにいた。
横浜店は営業の募集を続け、その間に二十五名を超える大所帯になった。
三月になると、俊平の命を受け、龍平は埼玉県の大宮の出店の準備にかかる。
中川が再び上司の龍平に不信感を持つのは、この出店に対して何の相談も受けなかったからだ。
新店の横浜店が分裂する形で、小野原を店長に、四月から大宮店がスタートした。
しかも高崎にいつまでも二号店を出そうとしない北関東販社の多賀信也常務に、しびれを切らした俊平社長が、店長候補を一人、南関東から北関東に出せと命令して来た時に、龍平は中川には相談せず、池袋店から中川の右腕の一人を選んで高崎店長に出した時は、流石に中川の堪忍袋の緒が切れる。
「やはり常務は何か理由があって、俺を避けるか、嫌っているのだ」と中川の不信感は最高潮に達した。もう一度、大阪の牛山にその理由を確かめてみようと思いたつのだ。
牛山はそんな中川を待っていたかのように笑って電話に出た。
「何言っているの、中川君、君は自分がしたことをすっかり忘れているのかい、龍平君はそのことで、中川真一を一生怨むと僕に言っていたよ」
「えっ、あの常務が僕を一生怨むと言ったのですか!」
第三章 東京と大阪 その⑨に続く
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