第八章(裁かれる者たち)その6
(筆者の職場の墓地や墓石の商談風景。顧客を演じるのはモデルさん)
極道の壷井からの高金利の借金を完済し、月初から問題だった従業員の給与も、同友社に助けられて解決し、平成二年六月は無事に終わった。
龍平は生地屋に京都山本から指定された二色の無地染めを発注していた。生地が染め上がり次第、指圧敷布団の製品見本を発送する予定だ。遅くとも八月から、和議倒産によって停止された京都山本との取引が本格的に再開されるだろう。
七月に入ると、浪銀ファイナンスの秦田社長の八幡工場の前半分を買い戻せとの要求を、俊平は次第に呑まざるを得なくなっていた。月々の返済額は七百万円にもなるが、翌年の一月まで返済は待つと、秦田は俊平に返済の方法を考える時間の余裕を与えた。それまでに俊平はその施設を利用して、毎月七百万円稼げる経営者を探さなければならない。物件の取引は翌八月に実行と定められた。
俊平の頭に、この物件の利用者として、中古自動車販売の徳山康男しか思い浮かばなかった。
一方、東京の壷井の行方は依然として分からない。
壷井はきっと何か大きな負債から逃げているのだろう。そろそろ多額の債権があるところが名乗り出て来ても良い筈だと龍平は東京の壺井商店の動静を伺っていた。
そんなある日、壷井商店の女性事務員から、血相変えて龍平に電話が入る。
「野須川社長ですね。壷井がそのうちに戻って来るものと、野須川さんに言うのを遠慮していたのですが、こう長く壺井と連絡が付かなければ、うちの会社も手元不如意となりますので、野須川社長、例の貸付金の返済をそろそろいくらかでも、お願いしたいと思いましてね。確か二千万円、お貸ししていましたよね」
龍平の顔色が変わった。
「何か誤解されているようですね。確かに一昨年の暮れに二千万円をお借りしました。しかしその後、分割払いで返済を続けましたので、現在は完済になっています。そちらにその帳簿がある筈ですから、どうぞお確かめになってください。ずっとその帳簿のコピーを送ってもらっていましたから、ここに全部とって一冊のファイルにしてあります」
「何ですって。それじゃあ、野須川寝具への貸付残高も、私には嘘を言っていたのですか。うちの社長はまだ二千万円残ったままだと言っていました。それに最近変なところから返済の督促があって、そんな借金も私は聞いていませんでした。一体うちの社長はどうしたんでしょう。あの台湾クラブの経営者と出会って、すっかり人間が変わったように思います。野須川社長、教えて下さい。社長にはあの二つの風俗店にいくら投資したと言っていたのですか」
「私は両店で一億円と聞いていました。お店の権利金や敷金に加え、タイ人の女性たちの支度金、他店からの引き抜き料のことですが、それらにも相当使ったと聞いていました」
「やっぱりそうでしたか。私は女の子に家を借りてやるとか、支度金を出してやるとか、そんな相談は何もされていませんのよ。野須川社長も覚えておられるでしょう。あの歌舞伎町の店に、ひとりとても綺麗な娘がいたでしょ」
「綺麗な娘、ああそうでした、いましたね。あの日、私の酌をしてくれたあの背の高い女性ですね。確かに器量良しで、セクシーで、プロポーションも良い娘でした。でも彼女がどうかしたのですか」
「台湾クラブの話を持ちかけてきた華僑の女、王(ワン)は、客が付かない夜は、あの娘を壷井の好きにさせていたのですよ。壺井は六十をとっくに過ぎていたので、女は卒業したものとばかり思っていたら、再び若い女とのセックスに溺れるようになって、あの王(ワン)に骨抜きにされて、すっかり言いなりになりました。そうですか、一億円使ったのかもしれないんですね。すると何千万円かは、ヤクザの高利の金に手をつけたことになりますよね」
「壷井社長はそんな怖い処からの借金から逃げたのでしょうか」
「いいえ、そんな筈はありませんわ。たとえ相手が極道でも、壺井が僅か数千万円の借金で逃げるなんて考えられないんですよ。まだ私が知らないことがあるのかもしれませんね。私はもう誰も信じられません。失礼ですが、野須川社長のご返答にも納得した訳ではありませんのよ。なにしろあの帳簿は無くなっているのです。壺井が持って行ったのかもしれません。それでは今日のところはこれでごめん下さい。またご連絡します」と女性はおとなしく電話を切った。
その夜だった。龍平に壷井商店の営業の大浦から電話が入る。
「野須川社長、壷井がつけていた貸付金の元帳、実は俺が持っているんだよ。何もその残高を俺に送金しろなどと、脅迫しようと言うのではないんだ。しかしこの帳簿があの事務員のおばさんの手に渡ったなら、ちょっと面倒になると思うよ。野須川社長、壷井の最大の債権者は誰だと思う」
「えっ、君はそれを知っているのかい。誰なんだ。僕の知っている人物か」
「そうだよ。あの事務員のおばさんだよ。彼女は壷井に八千万円貸していた。尤も彼女の持ち金ではありませんがね。鶯谷で雑貨商を営む旦那の会社の金だよ。彼女は旦那の会社でも役員で、経理担当だった。彼女は間もなく八千万円の業務横領罪、窃盗罪で逮捕されるだろう。主犯は壺井だが。事実を知った旦那は、壷井がいくら無二の親友だろうが、金額が金額だけに刑事告訴するしかないだろう。壺井は全国指名手配さ。すぐに逮捕されるだろうよ。警察が壺井を取り調べする中で、野須川社長が壷井からの借金を少し残している事実を示すあの帳簿があったら困るだろ。そうはならないように、あの帳簿を焼却して差し上げるので、最後の残金の半分の額で、この話、買っていただけないかと」
「ははは。何を言うのかと思ったら、そんなことだったのか。確かに残は百五十万ほど残っていたが、壷井社長は最後の送金で残高をゼロにすると、帳簿に手書きではっきり書きこんでいるんだよ。最後の取引の数行下を見てみろ。そのコピーをちゃんとここに持っているからね」
「何だって、ちょっと待ってろ。すぐ調べてやるから。ほんとだ。畜生」
「筆跡鑑定しても分かるだろう。お宅の社長の字だよ」
「なんで壷井はこんなこと書いたんだ。待って下さい。失礼なもの言いをして御免なさい。話を変えましょう。前月はあのおばさんが俺の給与を立て替えてくれたんです。だが今月はそうは行きません。給与が貰えぬなら、一日も早く辞めたいのですが、残務整理もいろいろありましてね。壷井は羽毛布団を五枚未納にしておりました。ものは相談ですが、その未納品を作っていただいて、あつかましいお願いですが、仕切り無しの無償で送ってほしいんです。その中の未集金の分を配達時に集金して、自分の給与に充当したいからです。その代わり、あの帳簿は責任持って永遠に行方不明にしますよ。いくら壷井がああ書いていても、鶯谷の雑貨商や、神戸の菊花組の手に渡れば、話はややこしくなるでしょうからね。どうでしょう、これで手を打ちましょうよ、野須川社長」
「分かった。じゃあ後でその五枚の明細を僕に電話してくれたまえ」
「それじゃ、明日にでもまた電話させてもらいます。宜しくお願いします」
八月に入ったある日、俊平は徳山康男を四ツ橋の事務所に呼んで、必死の説得をしていた。徳山も俊平の熱意にほだされ、すっかりその気になっていた。
「徳山君、返事は急がない。じっくり考えてくれて良いのだ。けど、くれぐれも断らないでほしいんだ。もう儂はあの物件を今月末に、十六億で買い戻すと決めているのだから。なあに、熟考すれば、月に七百万儲けられる仕事がきっと見つかるさ」
「私は会長に比べれば、まだまだ世間知らずですから、会長のおっしゃることには出来得る限りついて行こうというつもりです。お話の件、前向きに考えてみます」
そこへ龍平が外から帰って来た。
「おい、龍平。丁度良いところに帰ってきた。これから三人で昼飯を食いに行こう」
「いいえ、親子お二人で行って来て下さい。私は遠慮します」と徳山は慌てて帰る素振りを見せる。
「何言ってるんだ、徳山君。まだ話があるんだ。それは飯を食いながらだ」
俊平はいつもの強引さで、有無を言わさず、二人を近くの馴染みの洋食堂に連れて行った。
俊平は二人には何も聞かずに食べるものを決め、同じものを三人分注文する。
料理が来るのを待つ間、先ずは龍平に声をかけた。
「お前、最近寝具店で売るようになった面白い防寒衣類のことを先日話していたな」
「はい、羽毛ポンチョと言って、下着のすぐ上に着る防寒肌着のことです」
「その商品をこの徳山君に詳しく説明して、韓国でそれを作るメーカーを徳山君に探してもらおうと思うんだ。勿論、輸入資金は俺が立て替えるさ」
「どうして徳山君が韓国の縫製業者を知っているのですか」
「どうしてって、徳山君、こいつに説明してやってくれ」
「分かりました。(龍平の方を振り向いて)龍平兄貴、今まで兄貴には黙っていたんだが、俺の本名は洪(ホン)なんだ。ホン・カンナムが俺のハングル・ネームなんだよ。と言っても、俺は三世だから、ハングルは、からきししゃべれない。しかし韓国とは兄貴よりは連絡がとりやすいさ。この仕事が本決まりになれば、どうせ会長や兄貴と一緒に韓国に行くことになるんだろうな。その時に俺のパスポートの色が違うから分かってしまうことだから、今から白状しておくよ」
俊平が二人の話に割り込んでくる。
「そうなんだ、徳山君は在日韓国人、韓国人の特別永住者なんだよ。儂は早くから聞いていたんだが、何故か龍平には言い辛かったようだ」
「いや、僕はなにも徳山君が在日韓国人だと聞いても驚かないし、これからも同じように付き合って行くだけだから。徳山君、そんなこととは知らずに、君の国の人たちを悪し様に言ったことがあったように思うが、それは許してくれ」
「兄貴がそう言ってくれると嬉しいよ。俺はひょっとしたら兄貴が大の在日韓国人嫌いなのかと思っていたから」
なんということだ、昭和六十一年の暮れに特別永住者の二人に、巧妙に六百万円の商品を騙し獲られたことを龍平はずっと恨み続け、徳山の前でも特別永住者への偏見や怒りを見せていたのだが、考えてみれば、月六パーという普通なら絶対に返済できない借金地獄から龍平を救ったのは、日本人の友達ではなく、同じ特別永住者の徳山こと洪(ホン)だったと知ると、龍平は自分の偏見が恥ずかしくてならなかった。
その数日後、公衆電話から壷井商店にいた大浦が龍平に電話してきた。
「前月は野須川社長には大変お世話になりました。お蔭さまで壷井商店のすべての残務整理ができました。電話したのはそのことではありません。壺井が逮捕されました。もちろん共謀したあの女も逮捕されました。逮捕された女は旦那から離縁されました。当然でしょう。ただ俺が心配するのは、警察がこの事件の裏をとるために大阪の社長のところまで事情聴取に来るかもしれないことです」
「いいよ、来られても、僕はその事件には何の関係もないのだから。心配してくれてありがとう」
「あの女も可哀そうですね。壺井を想う一念であんな大胆なことをしたのでしょうが。壺井があの風俗店に投資した金は殆ど戻らなかったそうです。それはそうでしょ。歌舞伎町で店を借りて、僅か二、三ヶ月で解約したら、何も戻っては来ませんよ。タイ人の女たちも家賃を滞納していました。あの事務員のおばさんは、最初は何百万か運転資金を貸していたのが、野須川社長の借入が始まって金額が増え出し、台湾クラブで八千万円まで膨らんだようです。壺井は腐っていますよ。野須川社長が借金を返したって、壺井がベストライフ社で儲けたって、あのおばさんには一銭も返してはいない。借りる時はどんなに頭を下げても、借りてしまうと一切返さない。極道は極道だ」
「壺井はやはり人間が腐っていたんだね」
「それに可哀そうな女と言えば、もうひとつ社長にショックな話をしなければなりません」
「もしかしたら、あの若くて美人の奥さんのことなの」
「そうなんです。壺井は極道仲間からも金を借りていました。金額は知りません。あの奥さんが旦那の保証人になっていたようです」
「何ですって。奥さんはどうなった。医療関係にお勤めの、四十前の女性だったよね」
「これはあくまでも噂で、確認のしようがない噂話なんですが、なんでもソープの埼玉城に連れて行かたそうです。それも無理矢理ではなく、本人も納得していたとか。何時かこんな日が来るのではと覚悟していたようです。極道と知りつつ壷井に惚れ、奥さん気取りで同棲していたのですからね。」
「まさか、そんな酷い話がありますか。それこそ警察に相談することではないの」
「まだ本当の話かどうかも分からないし、仮に本当でも、警察がそんな民事に関わる筈ありませんよ。仕事の辛さを嘆いたり、倫理観に苦しむのは最初の一年だけだそうです。そのうちに精神が麻痺して、もう他の仕事は出来なくなるほどにセックス産業に就いた女性は変質するそうです。だから社長は、もうあの奥さんのことは忘れてあげて下さい。これで社長も極道の世界の怖さが本当にお分かりになったでしょ。自分を心底愛し、命懸けで尽くした女も踏み台にしました。畜生にも劣る人間だ。極道とは決して付き合うものではありません」
「ありがとう、大浦君。よく知らせてくれた。もう会うこともないでしょうが、元気でいて下さいね」
大浦は電話を切ると、壺井を大きく変えたのは、野須川寝具という有名寝具メーカーだったと思った。一生出会えないほどの大メーカーが商品を供給してくれるようになったという自負が、壺井を組の幹部にでも昇り詰めたように錯覚させてしまったのだ、龍平さんは罪なお人だったと溜息をついた。
その翌日、東京から刑事が龍平を訪ねて来た。壺井から借金があったが、既に返したと龍平が元帳のコピーを見せようとしたが、「それには及びません。我々は民事不介入なので」と壷井の人柄など、通り一片の世間話をして東京に帰って行った。
第八章 裁かれる者たち その⑦に続く