第二章(個別訪問セールス)その14

(筆者の前の会社の訪販事業で使われた営業車輌です)

宗川の車輌は五時に倉庫に戻り、事務官の立ち会いで、車輌の商品の残数を確認して降ろした後、三人は事務所に戻る。営業部員は、誰もまだ帰っていなかった。
「お疲れ様、今日は初日だからもう帰って良いよ」と宗川

が優しく言ってくれたので、龍平は礼を言って退社した。ミツバチ・マーヤの営業の仕事は、いつもこんな楽なものかと龍平は思ってしまった。しかし今日の車輌売上は、宗川が関西に配属されて早四年になるが、こちらに来て初めての最高成績が上がった日だったのだ。こんな日は滅多に来ない。だから彼は誰よりも早く身体を休めたくて、早帰りしたたのだった。

翌日の朝礼で、今日入った新人が十名紹介されたが、昨日の同期の新人は既に半数になっていた。
今日の組み合わせは昨日と違った。本日は第二部の宮本店長と龍平の二人乗車が伝えられる。
宮本店長は宗川係長より二つ、三つ、若く溌剌とした青年だ。龍平にハンドルを握らせると阪急宝塚沿線の住宅地へと向かった。
「昨日は誰の車だった?」と宮本は運転する龍平に尋ねる。
「宗川係長でした」
「そうか、やっぱり打ち直しのアプローチかい? 言っておくが、そんな詐欺まがいのテクは、いくら覚えても意味ないぞ」
「でも昨日、車輌ノルマの二倍売れたと、係長が喜ばれるくらい売れまして、車が殆ど空に」と龍平が言い終わらない内に、宮本は右手を顔の前で横に振りながら口を挟んだ。
「いやいや、たまにはそんなこともあるだろう。宗川先輩も、東京にいた時はあんな人ではなかったんだ。四年前、東大阪に試験店を出した時、関西に送り込まれた幹部の一人がムネさんだ。今年東大阪店は閉鎖され、江坂に新しく支社が出来たから、僕が店長の一人として配属されて来た。ムネさんに再会

したら、すっかり関西人になっていたな、営業としても少し崩れ始めたか」
「そうなんですか、宮本店長は、先輩の宗川さんを飛び越えて、第二部の店長に出世されたんですね」
「会社はちゃんと見ているよ。昨日ムネさんが、新人の君を研修する立場にありながら、ちょっと売れたからと誰よりも早く帰って来て、日報だけ書いて退社したこと、今日の売上が悪ければ、島崎部長から今夜あたり、こっぴどくやられる筈だから」

そうこうする内に二人が目指す、一戸建ての住宅が密集する地区にやって来た。そこで二人は別れて一軒一軒の訪問を開始する。天気は良く、そよ風も吹いていた。
龍平は、心の準備は出来たか、お客が出て来たら、なんと言おうか、などと自問すると、心臓が早鐘のように鳴り出した。
最初の家は、呼び鈴を押しても、シーンとして誰も出て来ない。思わず、ほっとする。留守だ、良かった、と正直思った。
そんな自分を叱りつけ、気を取り直して、次の家の呼び鈴を押す。
「どなたですか?」と呼び鈴と一体のインターフォンが答えた。
「ミツバチ・マーヤです」と言うなり
「結構です」の答えと共に、インターフォンは静まりかえった。

龍平が何軒廻ろうが、この同じことの繰り返しだ。

百軒廻っただろうか、遠くで車のサイドドアーの開ける音が聞こえ、慌てて車の見える位置まで戻ったら、宮本が上下セットを取り出している。既にアプローチもフロントトークも通過して、プレゼンへと進むようだ。
二百軒以上廻って、龍平が時計を見たら、正午を廻っていた。
車に戻ると、宮本は更に一件の契約を上げていた。少し休憩しようと宮本は言い出した。宮本は一人、付近の飯屋に出かけるも、龍平は誘わず、厳しい顔で「休憩したら、一件契約がとれるまで、飯を食わずに頑張るように」と指示を出した。
一時間ほどして、宮本は戻って来た。龍平がまだ一件も上げていないのを確認すると、何軒廻ったか?と尋ねた。
三百軒以上だと龍平が答えると、
「どうやら君は一戸建てには向いていないな、確かに新人が一戸建てで契約上げるのは、ハードルが高いかもしれない、よし場所を変えよう」
と、二人は次に高層の団地に向かった。

高層団地の一番下の階から始めることになった。
「真ん中で僕たちが会えるよう、ゆっくりアプローチをしてくれないといけないよ」と宮本に指示され、一階の通路の両端に二人は別れる。
龍平は再び、呼び鈴を鳴らして行った。

「結構です」と客が言い終わらない内に、龍平は次の言葉を掛けられるようにはなる。
しかし部屋の中には入れないまま、あっと言う間に宮本が攻めている部屋の前まで来てしまった。
宮本が今客と玄関で話し込んでいる部屋は、宮本が出発した家から僅か三軒目だ。
仕方なく龍平はひとつ上の二階に行き、また端の家から回り出した。結局午後は、宮本が一件契約を追加したが、龍平は午前午後を通して一件もとれていなかった。
四時を廻ると、宮本は再び休憩を宣言する。龍平は朝から五百軒は廻っただろうか。龍平は疲労で言葉が口から出なかった。
「野須川君、昼飯も食わせないで仕事させて悪かったな。僕はね、最初の契約一件がとれなければ、昼飯は絶対に食わないと決めている。それにだ、君が何百軒の呼び鈴を鳴らしたのか知らないが、もし僕がそちらの家を廻っていたら、あと何件か、契約を上げたとは思わないか。それは新人だから仕方ないが、君がゼロ打ちをやったことは、結果的にミツバチ・マーヤの営業を妨害したことになるんだよ。だからお昼が食えなかったのは、その罰だと思っても良い。だが車輌ノルマは達成しているから、五時まで休憩したら、江坂に帰ろうぜ」
事務所に帰ると、ノルマを達成した車輌から順番に帰社してきた。
龍平は支給された営業日報の帳面に、今日の日付と売上ゼロを書く。悔しさで一杯だ。もし新人でなければ、ゼロでこんな時刻に帰社してはならないことも、雰囲気で龍平は理解した。
前にひとり座っている藤崎部長が、帰社した営業一人一人の顔を睨んでいる。今日は店の売上が低かったようだ。

部長が許可しないので、誰も帰らずにいた。
九時を回った。やっと最後の車輌が帰ってきた。藤崎は椅子から立ち上がり、頭を掻き掻き、照れ笑いしながら入って来た車輌長を呼び止めた。
「おい、最低ノルマも達成せずによく帰って来れたな」
「すみません、今日はテリーの選択を誤って土壺にはまりました!」
「だけど契約はとったんだろ、契約書を見せてみろ、一件は敷一本、もう一件は肌掛一枚か、てめえ、客の家に上がりながら、なぜ売上を重ねなかった」
「いくら薦めようが、払う金がありませんでした」
すると藤崎は目を大きく開いて彼を睨み付け、横の机の上の算盤を手にとったかと思うと、思い切り彼の横顔を算盤で殴ったのだ。
算盤は木っ端みじんになり、すぐ前で日報を書いていた営業マンたちの上に、算盤の玉が飛び散った。部屋中がシーンと静まりかえる。
「お客様に払う金がないだと? てめえこそ金がねえじゃねえか。へらへら笑ってるんじゃねえぞ。てめえの歩合給を、奥さんや子供が、どんなに待っているのか、てめえには分からねえのか? てめえが稼がなくて、てめえの家の家計は誰が見るんだよ! お客さんの懐(ふところ)なんか、心配する余裕が、てめえにあるのか、馬鹿野郎!」
叱られている車輌長は、部長の前でうなだれ、「すみませんでした」を何度も繰り返しながら、大粒の涙を床に落としていた。

先輩たちにトークのロールプレイの手ほどきを受けた後、龍平が奈良の自宅に帰宅し、朝食以来の食事にありつけたのは夜中の十一時過ぎだった。妻の智代も龍平の遅い帰りが心配で、食事もせずに待っていた。かくして長い長いミツバチ・マーヤでの営業体験の二日目が終わった。