第八章(裁かれる者たち)その5

 

(筆者の職場「第二霊園」の永代供養墓。お墓守がいなくなっても、霊園が施主に代わって被葬者を供養するお墓のこと。霊園は以後年三回以上、三十三回忌までを目処に、施主と宗派まで合わすことはできないときもあるが、提携寺院に供養を依頼する。最近は通常のお墓でも、永代供養を霊園に委ねる顧客が増えてきている。)

龍平が宗教団体光明の家で個人指導を受けた三日後の六月十八日月曜日の夕刻、東京の壷井から電話が入る。
「注文の布団は出来たかい。え、まだか。じゃあ、最初の予定通りの二十日しか着かないのか。仕方ないな。儂はもう一度羽毛布団で勝負しよう思うてな、営業の男性社員、ひとり入れたんやで。大浦君と言うのやけど、社長と同じで寝具の訪販経験もあるんや。歳は社長より、えーと、社長は幾つになったかな」
「来月で四十三歳になります。昭和二十二年生まれの団塊の世代ですから」
「それでは社長より三つ歳下になるな。マルチ販売のことは知らん奴やから、また宜しく指導したって。電話したのはな、社長とこの貸付金が、未だに完済になってないことが、昨夜の幹部会で問題になってな、二十日迄に儂が責任取って全部消さなあかんようになった」
「前月末もこちらから送金して残を大分減らしましたよね。お蔭で社長から注文頂くまでは、当月の給与資金まで事欠く有様でした」
「それでも幾ら残ってるのか、知ってるんやろな」
「四百五十万円ですね」
「頼むわ、社長。もう待たれへんのや。全額耳揃えて明日振り込んでよ」
「毎月百万ずつの返済では駄目なんですか。四百五十万なんて資金、明日一日で出来っこないです」

「だからもう待てへんと言うてるやろ。なんなら明日、お父さんに相談してもよいんやで」
「何故そんなことを言われるのですか」
「それだけ儂も切羽詰まって来たんや。よっしゃ、ほんならこうしょうか。社長が三百万入れてくれたら、後は儂が不足分出すことにしよう。どや、それで社長の借金が消えるんや。長いこと社長が借りてくれたんで儂もちょっとは儲けさせてもらった。だから百五十万くらいは棒引きにしてもええよ。これで社長は完済や。どや、ええ話やろ」
「それでは壷井社長、明日三百万振り込んだら、残高はこれでゼロと書いて、いつもの元帳のコピーを送っていただけますか。その代わり、商品代は全額振り込んで下さいよ」
「よっしゃ、儂も男や、それは約束する。じゃ、三百頼んだぜ。明日中にな。商品代は到着したら全額払うから。残高の百五十を相殺したりはせんからな」
龍平はいつの日か、こんなこともあろうと、カードローンの枠を三百万空けていた。
翌十九日火曜日、三社のカード会社の枠をフルに使い、残高を六百万に戻すことで、銀行のCD機から出した三百万円を東京の壷井に送金し、工場からは夕刻、代金百五十万円の羽毛布団を壷井商店に出荷した。
ところが壷井は貸付の完済を記載した元帳のコピーをなかなかファックスして来ない。龍平は事務所で残業しながら辛抱強く待っていたが、壷井がファックスして来たのは、夜の八時過ぎだった。いつもならすぐその後、電話してくるのが、この日に限って、壺井からの電話は無かった。龍平から電話を架けて見たが、壷井はファックスしてすぐに店を閉めて帰ったらしく、誰も電話に出なかった。龍平はふと明日の商品代金の入金が不安になる。

翌二十日水曜日、龍平は朝の九時から東京の壷井商店に電話してみる。営業の大浦と事務員の女性は出勤して来ていたが、社長の壷井は珍しく出勤していなかった。
電話には営業の大浦がでた。
「野須川社長さんですか。初めまして、私、前月に入社した大浦と言います。宜しくお願いいたします。実はうちの壺井と連絡が付かないで困っています。どこかに直行してるんでしょうか。事務員さんも何も聞いていなくて」
「商品は着いていますか」
「ええ、先ほど運送会社から電話がありましたから、間もなくこちらに配達されるそうです」
百五十万の商品を持って壷井が逃げたのではなかったと知って、龍平は少しほっとした。
大浦が続けて「事務員さんが替わってくれと言っていますから、替わりますよ」と言うから
「はい」と答えると、事務員が電話に出た。壺井の元カノである。
「野須川社長、どうしたのでしょ。うちの社長が、朝から連絡とれないなんて、私に何も言わずに直行するなんて、こんなこと初めてなので、とても心配です」
「直行の心当たりはないのですか」
「それは」
「あるんですね。組関係ですか」
「最近、そちらと揉めていたようにも思います。何で揉めていたのかは知りません。だから私は社長が心配で。暴力団に拉致でもされたのかと」

彼女は十年以上も前に鶯谷の雑貨商に嫁いでいながら、まだ壷井への恋情を失ってはいないようだ。
「まさか、そんなことはいくらなんでも。そんな連中から借金でもあるのですか」
「いいえ、社長はそんなところからの資金には手を付けませんよ」
「では失礼ですが、台湾クラブ二店の開店に使った金はどこから出ていたのでしょう」
「七千万円、全部壷井商店の自己資金ですのよ。壺井商店は売掛はあっても、買掛ゼロ、借入金ゼロの会社です」
「そうですか。変なことを聞いて失礼しました。もし壷井社長と連絡が付いたら、私に電話するよう言って下さい」と電話を切った。
龍平の頭の中は混乱する。「今までの菊花組幹部会の話は全部作り話だったのか。だったら何故あんなに切羽詰まって貸付金の回収を急いだのだ。台湾クラブへの投資額は、龍平には一億円と言っていた。七千万円が正しいのか。それも全額自己資金とは。だったら壺井は何から逃げるのか。ヤクザとの何かのトラブルで監禁されたのか。壷井がこの女と大阪から上京して来て、雑貨商になって二十年くらいにはなるだろうが、そんな僅かな間に現金が七千万も残るほど、雑貨商とは儲かる商売なのだろうか。ベストライフ社との商売で儲けて、やっとSクラスの中古ベンツを購入できたと言っていた。雑貨商は儲からない商売だと、愚痴ばかり聞かせられていたが、それも全部嘘だったのか」
壷井のことは分からないこと尽くしだ。壺井の安否もさることながら、龍平は冷静になって、自分のことも心配しなければならなかった。仮に壷井が会社に黙ってどこかに直行していたのなら、商品代金百五十万円の今日の入金は望めそうにない。だが給料日までまだ五日もあるから、なんとかなるか、と思うことにして、壷井からの連絡を待った。

午後三時を回ると、一層ことの重大さを感じて、再び壷井商店に電話する。
壷井社長とまだ連絡が付かないかと龍平は焦った。
こうなると壷井は大口の債権者から逃げていると見るのが自然だ。あの事務員の女は、壷井商店の財務の内情を包み隠しているに違いない。そうなれば、こちらはこちらの債権保全をしなければならない、と龍平は腹を括った。
事務員の女性が出た。
「まだ連絡がつかないんですよ。社長のことが心配で、食事も喉を通りません」
「はっきりしなければならないのは商品代金なんですが。社長がいらっしゃらなくても、代金の百五十万円は払っていただけるのでしょうか」
「それがね、野須川さん、この商品の行き先が分かっていたら、それくらいは何とかして差し上げるのですが、営業の大浦さんに聞いても、まったく心当たりがないと言いますので、そんな状態ではお支払いは出来かねるのですよ」
「分かりました。そういうことなら、大変失礼なことを申して悪いのですが、社長と連絡が付くまで、一旦商品を工場に送り返してもらうということで如何でしょうか」
「では、そうさせていただきます。明日の昼にはそちらに商品が戻るように今から手配いたします。ごめんなさいね。そちらの資金繰り迄狂わせてしまいましたね」
翌二十一日木曜日、依然として壷井の行方は知れなかった。朝の十時過ぎになって東京へ送った羽毛布団の六ケースが工場に返品されて来たと報告が入った。

この商品をすぐに現金問屋に転売しなければ、二十五日の給与が払えない。従業員は給与が貰えると信じて待っているのだ。その金が無ければ、家賃や住宅ローンが払えないかもしれない。
龍平は、どこにそれを頼むか、いくら考えても、今からでは給料日にはとても間に合いそうになかった。しかも足元を見られて買いたたかれ、下手すれば百万にもならないかもしれない。
龍平は眼を瞑り、「神様、阿弥陀如来様、光明の家の神様、どうかこの窮状をお助け下さい」と心の中で祈るのだった。
ふと、頭の中に「株式会社同友社 野崎社長」の名前が浮かんだ。
そうだ、今すぐ浪速区稲荷の同友社に行ってみよう。
龍平は一階玄関の受付嬢に、いきなり野崎社長に会わせてほしいと頼んでみる。
五分ほどして受付嬢から「どうぞ、社長室に上がってください」をエレベーターに案内された。
龍平に野崎はにこにこしながら話しかける。
「やあ、野須川さん、一体どうしたんですか」
「すみません。御社を紹介した東京の壷井社長が急に行方不明になってしまって、壷井商店の発注に従って作った羽毛布団、百五十万円分が出荷もできず、よって代金ももらえず困っています。来週月曜日の給与代金に充てるつもりでしたので」
「あの壷井君が行方不明ですか。そうですか。それはお困りでしょう。その伝票をお持ちですか」
「はい、これです」
「羽毛掛布団、ホワイトダック、ダウン九十が四十枚、ホワイトグース、ダウン九十五が二十枚ですか」

「これだけ高級な商品になると転売もなかなか困難です」
「分かりました。ちょっと待って下さい」と野崎は社内電話で寝具仕入担当次長を呼んだ。
間もなく何事が起ったのかと寝具の次長が慌てて飛んでくる。
「すまないが、野須川の社長が困っておられるのだ。理由(わけ)は良いから、商品が入り次第、この仕切書通りの仕入伝票を起こして、野須川寝具に明日付けで緊急払いをして下さい。間違わずにお願いしますよ」と野崎は龍平に商品の明日の入荷を確認した。
野崎は土日を挟んで給料日が迫る龍平の資金繰りを助けようと、翌日の金曜日に百五十万円の緊急支払いを命じたのだ
「分かりました」と寝具担当次長は龍平が持参した仕切り書を持って部屋を出て行った。
龍平は慌てて椅子から転がり落ちるように床に座り込んだ。ソファに深々と座る野崎の膝の前で土家座して礼を言う。
「野崎社長、ありがとうございます。この御恩は一生忘れません。何時の日か、必ずお返しいたします」
野崎は驚いて龍平の手を取り、立ち上がらせて元のソファに座らせた。
「野須川さん、私や同友社に返す必要は一切ありません。あなたが返したいと思われるなら、あなたの仕入先、あるいはあなたの周りの困った人に返してあげなさい。いいですか。私があなたをお助けするのは、あなたのように真面目に誠実に商品作りをなさっている業者さんのお蔭で同友社が儲けさせていただいているからに他なりませんよ。野須川さん、もしも将来、このようなことが企業経営者であるあなたに持ち込まれたなら、その時はその業者に私と同じようにしてあげて下さい。それが私へのお返しなのです」

龍平の目頭が熱くなり、野崎の顔が曇って見えなくなった。
日頃から仕入先を大切にせよと言っている言葉を、その通り実践して見せた野崎に、龍平は深い感動を覚えた。
安かろう、悪かろうはあたりまえの現金問屋雑貨商業界、利益とは合法的にひとを騙して得るものだと考えてきたこの業界、現金が急いで欲しくて商品をダンピングする製造業者を蔑んで利用して来たこの業界、そんな業界に、ひとり背を向け、自分の信ずる道を歩んできた野崎社長。
この業界では、大手量販店に催事物やスポットではなく、定番(プロパー)で商品を入れられる唯一の企業が同友社だ。
現金問屋、あるいは雑貨商として、僅か二十五年で上場が迫る程に頭角を現した同友社が、このようになったのは、「与える」という徳、世の為、他人の為に役立つ企業つくりをするという徳を、野崎が日々積んで来たからこその結果であるとまでは、龍平の気づきはこの時点では及ばなかった。
この年の秋に野崎は同友社を、ドウユウシャと社名を改める。

第八章 裁かれる者たち その⑤に続く