第五章(和議倒産) その6
(筆者が寝具製造業から転業した霊園事業の第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパークは筆者自身が霊園の設計に携わり、業界をリードする、墓参者を楽しませる公園墓地に開発した霊園である。)
大阪市鶴見区にある、肌布団を量産する工場の敷地内にあった野須川寝具の本社に勤務した龍平は、訪販事業の南関東の拠点作りに東京に赴任して、本社はその間に淀屋橋に移転したが、三年振りに野須川寝具の本社に戻って来た。
龍平が東京から大阪に戻り、カシオペア関西販社大東店、後には同所の関西販社本社にいた昨年四月から暮れ迄の九か月間に、経営環境がすっかり変わった毛布事業部営業部で、坂本専務の指導で工場の生産体制に大きな変更が加えられた。
帝都紡績の次期社長と謳われた谷本克彦常務の失脚の後、アクリル総部は社長室の指導で変革され、毛布の生産販売体制は特に見直されて、帝都紡績内での製品の扱いが禁じられるようになった。
代わりに梅田新道の日章化学本社ビル内に、日章化学と帝都紡績のナイロン、ポリエステル、アクリルを使った二次製品を販売する日章帝紡合繊という合弁会社が創立され、アクリル総部の創成以来、毛布の生産販売に直接間接に携わった帝紡社員の全員が、日章帝紡合繊の毛布課に配置換えとなった。
毛布の生産は一年を通じて行われるも、倉庫から出荷されるのは秋冬の短い期間だけである。そのような極端に季節性の強い製品を帝都紡績本体が扱うのは、金融引き締めが叫ばれる今の世では如何なものかと、更に需要と供給のバランス崩れによる価格変動のリスクをもろに被る商品を扱うのは如何なものだと、資金とリスクをヘッジする為に、責任の半分を他人に押しつけようと帝都紡績は、往時合繊メーカーのトップの地位にあった日章化学を利用しにかかったのである。
だが日章化学はその上手を行き、毛布課などには一人の人材も出さなかった。
つまり、野須川寝具の坂本専務率いる毛布事業部と組んで、同社の毛布を販売するのが仕事の日章帝紡合繊毛布課の人々は、誰の監督も受けず、誰からの監視もされずに、自由気儘に仕事が出来たのだ。
このような帝都紡績本社の中途半端な責任逃れの体制は、やがて自分たちに付けが戻って来て、大火傷を負うことになるのだが、それはまだ少し先のこと。
話を野須川寝具の社内に戻すが、ハイゲージのタフト毛布の需要にも、次第に陰りが見えるようになって来たので、坂本功(いさお)専務は日章帝紡合繊と協議を重ね、忠岡工場のハイゲージ機の稼働率を徐々に下げて行き、西独のカール・マルクス社のハイパイル編機によるアクリルニット生地を使用し、回転式の連続捺染機を止めて、新たに設備した二連のオート・スクリーン捺染機を稼働し、一万円上代の張り合わせのミンク毛布に主力商品を切り替えるよう、方針を変更した。
訪販のカシオペア事業の業績推移に気をとられ、寝装事業からも、毛布事業からも、すっかり目を離していた俊平会長は、毛布事業部の生産体制の変更にも異論が言えず、何事も坂本専務の言うなりに任せるしかなかったのである。
カール・マルクス社とは、嘗て太平洋商事が、同社製造の経編機を大量に購入し、北陸地方に事業者を募って、一大トリコット生地編立産地を誕生させた話は既にしているが、その経編機メーカーである。
毛布の場合、以後ハイパイルのミンクタッチのニット生地をオート・スクリーンで捺染された毛布をカール毛布と言うようになった。アクリル毛布の最高級品の誕生である。
つまり下代(製造卸価格)が三千円から、五千円にアップするのだから、毛布事業部としては、数を追わずとも、つまり三千円台で卸していた時は、事業部の月商を三億円にするには、月に十万枚の毛布を生産し、販売しなければならなかったのだが、五千円台で卸せる高級品に変えると六万枚の生産販売で済むことになる。少なくとも坂本功は単純にそう考えたのである。
しかしそれは机上の計算だ。
昔龍平が太平洋商事の編物製品課にいた時に、秋冬用紳士肌着を、某量販店向けの生産計画を立てるとき、九八〇円(キューパー)上代の廉価物の生産計画を仮に一万デカ(一デカは十枚)とするのなら、その上の一九八〇円(イチキューパー)上代の中級品は千デカで良いと、その上の二九八〇円(ニーキューパー)上代の高級品は百デカで良いと、先輩諸氏から教えられていた。分かりやすくする為、数字は極端過ぎたかもしれぬが、そのような三角形が価格の成せる需要のピラミッドなのだと。付加価値の高い高級品を廉価品同様に量販するというのは、非論理的な矛盾だと教えられた。
しかし無謀にも、毛布事業部は、高級純毛毛布と同じ価格のハイパイル張り合わせ毛布を、純毛毛布が売れる数量の何倍もの生産を、五十四年から五十五年のシーズンにかけて強行して行ったのである。
そこには、カシオペア事業への資金需要が増大し、銀行借入だけではカバーしきれなくなって、毛布事業部や寝装事業部に大幅な売上アップ、上場会社の手形入金のアップを、俊平が両専務に問答無用でノルマに課していた事情があったのだ。
龍平は、毛布の坂本路線を危険極まりないと不安視するものの、年度末の八月が終わるまでは、カシオペア販社の解体整理から目が離せないのであった。
昭和五十五年(一九八〇年)三月、龍平が本社に戻って二か月が経ったが、カシオペア販社統括事業部長、牛山取締役が自己都合で退職したこと、そして日銀が公定歩合を九パーセントに切り上げたことを受け、カシオペア販社の解体方針を発表するのは今だと、なみはや銀行からの出向者、香川武彦常務によって緊急幹部会議が招集される。
役員会議ではなく、幹部会議を香川が召集したのは、審議されるのが全社的な重要案件だからと、事業部長や役員だけでなく、部長や次長クラスまで出席させるのが効果的だと判断したからである。
銀行からの借入金利は、既に日銀の出方を見越して、レートが年率十二、三パーセントにも上昇していた。カシオペア事業の開始以来、借入金が急増し、担保余力が無くなった野須川寝具の足元を、どの銀行も瀕死の獲物を冷笑するハゲタカの様に金利上げ放題だったのだ。
来期は確実に年六億円の支払い利息を覚悟しなければならないと、俊平も、香川も、龍平も揃って唇を噛みしめていた。
会議の出席者は、野須川俊平会長、財務総務担当の長村専務、毛布担当の坂本専務、寝装担当の井川専務、経理管理担当の香川常務、取締役経理部長の野須川龍平、カシオペア東海販社社長から、牛山取締役本部長が欠けた本社のカシオペア統括事業部の責任者として呼び戻された岩井本部長、地方の販社の業務監査から会議出席で一時的に大阪に戻ったカシオペア統括事業部の近藤部長、最近井川専務の下から坂本の招きで転入した毛布事業部営業部の東口部長、最近商社から途中入社した資材部の植村部長、そしって最後に寝装事業部の佐川次長の十一名である。
会議の冒頭、俊平会長から牛山取締役の自己都合の退職について報告があった。
すかさず坂本は参加者全員に質問した。
「それで牛山さんは今何をしているのですか。会長はご存じなので」
「いや、儂は何も知らない」
「誰か牛山さんが何をしているのか、知っている者はいないのか」
会議の参加者が全員俯いて黙ってしまったのを見て、坂本は末席に座る龍平に声をかけた。
「龍平君、そんな処にいたのか。全国の販社の事務官たちと情報交換ができる君のことだ。君なら牛山さんが今どこで何をしているのか、知っているのではないのか」
「はい、坂本専務、私が耳にしたのは噂でして、事実かどうか、確認しておりませんので、こんな場所でそんな無責任な発言は慎むべきかと」
「いいから、君が聞いた話を聞かせてくれたまえ」
「資金繰りが行き詰まって破綻した、東京の高級日用品の通販会社S会の事件は、新聞にも載りましたから皆様よくご存知でしょうが、S会の再建屋の一人が、東京の山崎さんらしく、山崎さんの指示で、牛山さんは中川君と訪販会社を創り、S会の残した在庫商品を、集めた訪販セールスに売らせているとの噂を耳にしています」
俊平はたちまち顔色を変え、テーブルを叩いて怒鳴った。
「あの野郎! やっぱり訪販会社を自分でやりたくて辞めやがったのか!」
「会長! お気持ちをどうか静めて下さい。牛山さんは訪販会社と言っても、日曜雑貨品や美術品の訪
販会社ですので、カシオペアの商売敵でも何でもありませんから」と牛山の後輩の井川専務が俊平をなだめた。
龍平は驚く。牛山のことは、俊平を除く出席者の全員が知っていた様子なのだ。何も知らなかったのは俊平会長だけのようだ。それを面白がって坂本は確かめたかったのか、それとも、俊平龍平親子は奈良のあやめ池に同居しながら、何ら情報を交換する間柄でないことを面白可笑しく嘲笑したかったのか、龍平は坂本専務の顔を憎々しげに睨む。
父親は坂本専務によって完全に「裸の大様」にされている、と龍平は嘆いた。
会議の重要案件の審議はこれからである。
第五章 和議倒産 その⑦に続く