序章(廃業の決断)その7
昭和五十四年四月二日月曜日、世界は五日前に起こった米国スリーマイル原発の大事故が、炉心溶融に繋がるのかどうか、固唾を呑んで見守っていたときだ。東京から夜行寝台でやってきた龍平だったが、昨夜は一睡もできなかった。
大阪駅構内で時間を潰した後、地下鉄淀屋橋駅の北改札口を地上に上がり、野須川寝具産業とカシオペア関西の本部や淀屋橋店が入っているビルの前に八時五十分に到着した。よく晴れた朝だった。
昨秋から大阪本社に出て来るよう何度も命令はされていたが、ずっと拒否し続けてきた龍平には、今朝が初めてみる大阪の本社ビルだ。
一斉に非常階段から何十人と、胸のポケットにCASSIOPEIAと刺繍を入れた、揃いの青のブレザーを着た若いセールスたちが賑やかに降りてきた。朝礼が終わったところなのだろう。セールスたちはエレベーターを待つ龍平に、元気よく朝の挨拶をしながら外に飛び出して行った。
龍平は野須川寝具が借りているフロアの最上階に上がった。
社長室、財務部、経理部、総務部とガラス窓に書かれた扉を確認してそっと部屋の中に入った。
一斉に仕事の手を止めて龍平を見る従業員たち。
(写真は筆者の前の会社の最盛期に本社があった淀屋橋の千代田火災ビル)
先ほどの元気溌剌な若者たちとはうって変わり、罪人を見るような冷たい視線が並んでいた。
無言の非難と侮蔑の視線を浴びながら、龍平は部屋の中を奥へ奥へと進み、社長室を仕切る間仕切りの扉を開けた。
俊平は奥のデスクで昨日の営業日報に目を通していた。ふと顔を上げ、龍平をにらんだかと思うと、応接ソファを通り抜け、俯く龍平の前に立った。
「おい、なぜ粉飾してまで成績を良く見せようとした! 売上も利益も嘘の数字で良かったら、お前の給与など、お札のコピーで充分だったのだ! お前は企業経営者として不適格だ!」
何を言われても龍平は父親に一切口答えはしなかった。
「眼鏡をとれ!」の指示。龍平の右の頬に、左利きの俊平の力強いげんこつが飛んで来た。
眼鏡を手に持ったまま、龍平は無様によろめく。
「何か言いたかったら、言って見ろ!」
龍平は一言も返すこと無く、社長室を退出した。
「お前との縁も今日までだ!」と背中の後ろで叫ぶ父親の声を聞きながら。
龍平は寝具事業部や毛布事業部に会社を去る挨拶をしようと階を降りて各フロアを廻ったが、誰も龍平とは逢おうとしなかった。
太平洋商事を辞めてまで入った野須川寝具産業の六年間は一体何だったのだ、私生活の総てを犠牲にして仕事に身を投じてきた東京での二年間は何だったのだ、と龍平は悔し涙を流した。
最後に一番下のフロア、龍平は辺りに誰もいないのを確認し、カシオペア関西本部の扉を開けた。
田岡社長の秘書の女性が出て来て、急いで龍平を中に入れた。
この淀屋橋ビルに本部が入った半年前に採用された、歳は四十前後のキャリアーウーマンだ。
「野須川常務、おはようございます。お待ちしていました」
と大きな声で挨拶し、龍平を社長室に案内しながら耳元で囁いた。
「お察しいたしますわ。社長の田岡から聞いています。本当に酷い話。近藤部長の報告書は嘘八百ですわ。次は僕の番かと、田岡社長も・・・」
田岡社長は待ちかねたように社長室から出て来て龍平の両腕を握った。
「よく来たな。お父さんに会ったんか?」の問いに龍平が頷くと、
「それでどう釈明したん? そう、昨日僕が言ったように何も言わなかったんやな。それでいい。今は言い訳も反論もしちゃいけない。どちらが悪いのか、その内に分かるからな。で今困ってることは」
「私の家財道具の行き先です」
「今どこにあるのやった、そや引越業者に預けたままやったな、昨日は間一髪やった、一分僕の電話が遅ければ、君は僕たちの前から永遠に姿を消していたんやから。」
「今日中に業者に行き先を指示しませんと」
「分かった、すぐなんとかする、夕方東京駅に着いたら公衆から電話してよ、その時に行き先の返事をするから、それよりな、龍平君、東京に帰る前に、うちの大東店に寄ってよ」
「昨日のお話の店ですね」
「当社発祥の伝統店でありながら、成績が振るわなくてな、今日付けで店長を更迭するつもりや」
「分かりました。今からそのお店を見てきます」
龍平が出て行くと、田岡は秘書を呼び、野須川「会長」のアポを至急とるように命じた。(販社では俊平は会長と呼んだ。)
「龍平君の落ち着き先を決めるにも、先ずは野須川会長と話をつけなければな。会長は何と言うか。会長の捨てたもんや、誰が拾っても文句無いやろ」
序章⑧に続く