第三章(東京と大阪)その6

(写真は東武東上線大山駅から南へ川越街道を渡った板橋区中丸町。この辺りに筆者が住んだマンションがあった)

俊平が大阪に戻った直後、智代は雅代を連れて大山の中丸町の社宅に戻って来た。雅代はよく夜泣きする子であった。龍平には睡眠不足に悩まされる日々が続く。

その頃、大阪本社の了解を得て、池上や小野原も、龍平のマンションの近所で、新たに借りた社宅に入居していた。小野原は埼玉県新座に家族がいたが、通勤時間が惜しいからと単身赴任を申し出たのだ。
二人は毎晩のように龍平を訪ねて来た。龍平を囲んで、この三人でカシオペア南関東販社の営業戦略が練られて行く。龍平と共に大阪からやって来た、今やその人望で、営業マンたちの中心者となった中川は、この経営戦略会議の蚊帳の外におかれていた。
九月は後半にも営業の募集をする。応募者の中にはミツバチ・マーヤの退職者が数名いた。同業他社にいた者は採用しない、というミツバチ・マーヤの方針を知る龍平は、大阪に電話を架け、俊平の意見を問うことになる。
一人でも戦力になる人材が欲しいからと、彼らを採用しない理由は無いと俊平は、龍平の予想に反する答えを出した。加えて、求人に応募して来た者たちは全員採用し、使ってみてから向き不向きを判断せよと、面接の段階でえり好みする龍平の方針を批判してくる。
以後ミツバチ・マーヤの退職者が応募してきた時は、退職理由すら確かめず、全員採用になった。
九月は難なく一千万円をクリアし、十月は一千五百万円を目標に立てることになる。

さて石油ショックの時代から四年の歳月が流れ、一時暴騰した石油関連商品の価格は既に沈静化していたが、日本の商社は、総じてその痛手に少なからず苦しんでいた。その中に従業員三千六百人を擁して、日本の十大商社の中に入りながら、それが致命傷となり、昭和五十二年九月には遂に断末魔の時を迎えた関西系の商社があった。

石油ショックの直前、レバノン系米国商人がカナダに創った石油精製のベンチャー企業に、担保も取らずに多大な投資をした挙げ句、石油ショックでそのベンチャー企業が倒産すると、残った巨額な投資額がそのまま一大不良資産になった北国(ほっこく)産業である。
緊急に同社のメインバンクの仲立ちによって、太平洋商事に、合併話が持ちかけられた。
太平洋商事は、それも社会使命だと好意的な姿勢を見せる。半年余りの協議を受け、昭和五十一年一月、北国産業救済に関する方針を記者会見で発表した。
だが北国産業や世間の期待に反し、発表されたのは、将来の合併を前提とする「業務提携の締結」だった。
それから一年半後、この九月末になって、いよいよ同社は太平洋商事との合併に依らなければ、会社再建への万策が尽きた。
それを待っていたように土壇場になって、合併では無く、同社を吸収したいと太平洋商事は申し出たのだ。
何を言われても、呑まなければ、ここで同社には破産しか無い。
太平洋商事は、合併条件として提示されていた価格の何分の一の価格で北国産業を買いたたき、三千六百名の社員の内、引き受けたのは千名余りで、後は冷酷無情に放り出した。
北国産業は跡形も無く消滅する。創業者一族が集めた世界有数の美術陶芸品は、メインバンクが買い取り、それを所蔵する美術館を建て、大阪市に寄贈した。
石油ショックの直前、太平洋商事を辞めて野須川寝具に入って、暫時総務経理で働いた後、毛布事業部に配属された龍平は、アクリルタフトライナーの製造販売を担当していた。

防寒コートや防寒作業着の裏地に使われる、ゴールド色の毛布の様なあの裏地である。
この商品を開発し、その市場の支配権を握っていたのが、北国産業の寝具部だった。
タフトライナーで新参者の野須川寝具は、果敢に北国産業に戦いを挑まなければならなかった。
だから北国産業がこの世から消えて無くなったこと、しかも弱者を助けると見せて、実はそれによって一儲けしたにも見える太平洋商事のしたたかさは、龍平にはそれまでの会社経営の哲学の変更を迫る程の衝撃だった。

十月に入って、龍平は、中川と共に改良寝具社から転職してきた社員で、月三十万くらいしか売れない妻帯者の富山を解雇することにした。
大阪から、採用した営業は、独り立ちできるまで辞めさせずに育てて行けとの指示だった。
だが、このまま不採算の社員を社宅に入れて最低保障の十七万円の給与を払い続けたら、会社が持たないと判断したのだ。
するとそれを知った大阪本社の寝具製造部から来た独身の岡山まで、この妻帯者に同情して一緒に辞めると言い出した。
岡山は月七、八十万円くらいの販売力だから、会社にすれば赤字ではないが、利益貢献も無い社員だ。だからこれもやむなしと龍平は判断した。
それを聞いて、中川が龍平につっかかって来る。
「常務、あなたを見損ないましたよ。あれはいくらなんでも酷い」

「中川君、君に相談せず、決めたことは悪かった。しかしいくら考えても、この会社を存命させるには仕方なかったんだ、分かってくれよ」
「富山君は、会社に貢献できないのをずっと後ろめたく思ってきました。しかしなんとか売上を伸ばそうと、毎晩必死でロールプレイを受けていましたよね。常務には言わなかったのですが、彼はこっそり奥さんを東京に引き取っていたのです。言わなかった理由はお分かりでしょう。奥さんの引越費用を全額自分で負担したのですよ。常務はそんな彼を、」
「それは悪かったね」
「だったら、常務、考えなおして下さい。そうしたら岡山君だって残ってくれるんです、明日が二人の引越の日なんですよ」
「済まないが、考え直すことはできない」
「僕は常務を怨みますからね」と中川は去って行った。

数日後、大阪の俊平から龍平に電話が有った。
「どうだ、順調か? そうか、お前、横浜に行って、すぐ次の店を探してくれ」
「出店を考えろと?」
「十二月には横浜で営業しているようにしろ。今後は三ヶ月毎に出店してもらう」
「無茶苦茶ですよ。そうしたいけれど、そんなに営業マンは促成できません」
「理屈を言うな、野須川寝具の状況が分かっているのか? 分からないなら、黙って言う通りにしろ」

「それは京都山本のことですね、何か言って来ているのですか?」
「いつ言ってくるか、いつ切られるのか、分からないから急いでいるんだ」
「分かりました。明日横浜に行ってみましょう。適当な物件があれば、電話しますよ」

第三章 東京と大阪 その⑦に続く