第二章(個別訪問セールス)その15

(訪販事業の開始と共に東京に赴任。秋に長女が生まれ、久しぶりの休日がとれた日に、営業車を借りて家族で新座の平林寺に行く。昭和五十二年十一月。筆者三十歳。)

ミツバチ・マーヤで訪販を実習する三日目の朝になった。
妻の智代に起こされ、疲労の極にある身体をやっとの思いでベッドから起き上がらせ、眠い目をこすりながら龍平は朝食を済ませた。
今日もゼロ打ちしたらどうしよう、それでは自分に狙いを定めて、一日も早く辞めさせたい藤崎部長の格好の口実を与えてしまいそうだ。
龍平は智代に、
「今日は必ず契約をとれます様にと祈っていてくれないか」と頼むのだった。
「はい、真剣に祈るわ、今日一日何度も神様に祈ります」

近鉄快速電車、地下鉄御堂筋線を経由し、一時間半弱の通勤時間をかけて江坂の事務所に着く。
龍平が顔を見せると、藤崎は露骨に驚いた表情を見せた。まさか龍平が今日出勤するとは思っていなかったようだ。

店長の田原を呼び、「すまんが今日は野須川と三人車輌で行ってくれ」と言いながら、藤崎は思いついたように、一部の車輌長全員を集めるよう指示をした。
十人余りの車輌長が集められ、藤崎から何か指示を受けている。龍平には「今夜、新人の見極めを行うから」と藤崎が言ったように聞こえた。車輌たちから「えー?もう!」という声が上がる。いつもより新人の見極めが早まったことへの不審なのだろう。
「ゼロ打ちを続ける奴を雇い続ける余裕が、この経費の懸かる関西支社にはないんだよ!」と藤崎は車輌長たちの肩を叩いて解散させた。

田原店長は、個人の営業成績は抜群だと聞いていたが、宮本店長よりも若く、人生経験などは乏しそうで、部下の指導力があるようには見えなかった。
田原は、龍平にハンドルを握らせ、「新人さんよ、ゼロでは帰らせないぜ、もしも二日続きでゼロ打ちになったら、今夜部長に呼ばれるそうだ」と言って出発した。
向かったのは、江坂から南へ一時間程走った先の、南大阪の富田林市内に出来た新興の団地だった。
龍平が分担する棟に行こうとすると、田原に呼び止められた。田原は、眼鏡を車に置いて行くよう指示して「印象が固すぎ! もっとソフトにしなければ」と言ってくれる。
言われるままに眼鏡を外す。そして昨夜一時間かけて、二部の宮本店長から指導されたトークのロールプレイの中で何度も言われた「先ずはトーク! トークを続けるのだ! 仕事の話は後回し!」の言葉を思い出す。

とにかく少しでも長く話をすることだ。そうは言うものの、なかなか思う様には行かない。
五軒ばかり廻った処で、中から智代の様な若い女性が、楽しそうな、浮き浮きした顔で出て来た。
「新婚さんですか?」という言葉が龍平の口から自然に出る。
女性は、ぽっと顔を赤らめ、「はい」と答えた。
龍平は、自分も結婚したばかりだと話して、若い男女がたった二人で暮らして行くことの大変さがよく分かるという話から、いつしか十分以上も、その若い女性と互いの新婚生活を比べながら話し込んでいる自分に気づいた。これが宮本店長の言うアプローチなのだ。
人は、他人の話には関心がないから、聴きたくない。それでいて自分の話は他人に聴いてほしいのだ。それが人情だ。龍平はやっとトークの意味を理解した。
トークとは、好きなことをしゃべるのではなく、相手のトークを引き出して最後まで聴くことだった。
人の話を引き出すには、相手を見た瞬時に、相手のプロフイールのデータを、頭をフル回転させ、出来る限り多く推理することが肝要だった。
女性は、どちらの親にも、経済的に頼ることができないので、家具も、寝具も、なかなか新しく揃えることはできないが、少しずつ揃えて来ていると笑って話を続ける。
話の途中で、龍平が布団屋であることを思いだし、そろそろ夫の掛布団だけでも新調しようかしら、と女性は言い出した。女性はいつしか、突然訪れたセールスにすっかり気を許しているのだ。
龍平はすぐに赤と青の掛布団二枚を車に取りに行く。
この女性が青の掛布団一枚買ったことで、金額は僅か一万二千八百円だが、龍平はやっと初オーダーを

上げることができた。
この団地に入って一時間近く経っていたが、他のベテランの二人はまだ契約がとれずにいた。
「糞! しけた奴ばかり住みやがって! おい、野須川、場所移すからエンジンをかけろ」と田原が叫んだ時だ、龍平から掛布団を買った若い女性が、向こうから、大声で自分たちの社名を呼びながら、駆けて来るではないか。
「いかん、やっと新人がとったオーダーすらキャンセルかい。聞こえないふりして行こうぜ」との命令には、龍平は流石に従えなかった。
若い女性は息を切らしながら車に追いつくと、こう言ったのだ。
「ミツバチ・マーヤさん、ご免、ご免、やっぱりもう一枚もらっておくわ」

龍平に二万五千六百円の売上が上がった処で、他の二人はゼロのまま、離れた別の団地へと移動した。
そこではベテランの二人は大きな契約をとり、名誉挽回となったが、逆に龍平は契約がとれなかった。
夕方になって、田原は飯屋で夕食にしようと言い出す。
「今日は新人さんに、江坂に帰る前に夜訪(やほう)をしてもらう。これから雇用促進住宅に行く。新人さんよ、契約一件では帰れないから。僕らはいいんだ。新人さんにもう一件上げてもらいたいんだよ。仕事から帰ってきて、七時過ぎにビール飲みながら家族と飯食っているおっさんを狙ってもらう」
「私ひとりで廻るんですか?」
「そうだよ、酔っ払ったおっさんに、お故郷(くに)はどちらです?と聞いてみろ」

「お故郷ですか?」
「そうさ、言っておくが、どこが故郷だと言われても、奇遇ですね、私と一緒です!と驚くんだ、それで肌掛一枚くらいは売れるから、契約の重ねはな、夜は無理だ、商品一点勝負だから、分かったな」
三人で団欒しながらゆっくり飯を食い、七時廻ったのを確認して、田原は龍平に訪問の開始を命じた。
留守でない家は、どの家もまだ食事中だ。
「馬鹿野郎!」「この非常識!」とどの家でも怒鳴られる。
国立大学を出て、一流商社に入って、ずっとエリート街道を歩んできた自分が、どうしてこんな目に遭わなければならない?と龍平は泣けて来る。
もう廻る家が無くなる一歩手前で、戸口に立つ龍平を見て、二本目のビールの栓を抜きながら、家族と夕食を食っていた中年の男が、上機嫌で話しかけて来た。
「こんな時間まで仕事かい? お前さんも大変だな、さあ、お前さんも上がって、いっぱいやるか? 遠慮するな、遠慮してもらうほどの立派な家じゃないから」
「失礼します」と龍平はおずおず上がった。
コップに注がれたビールは一口だけ口にして、
「大将! お故郷(くに)はどちらなんですか?」と言われた通りのトークを始める。
「なんだい、藪から棒に。俺は福岡さ、それがどうした?」
龍平は良かった!と思う。よく知った街だ。
「福岡なんですか、懐かしいです。博多で量販店相手にメリヤス肌着の卸(おろし)をしていました」

「量販店って、あの九州一円に店出してる大スーパーのことか?」
「そうです、大阪にも奈良にも店を出してるあのスーパーです、で、大将は福岡県のどこのお生まれだったのですか?」
それから屋台の話、焼酎の話、ラーメンの話、繁華街天神の話など、博多の街の話題で盛り上がった。
田原の言っていたパターン通りに進み、すっかり気を許したこの家族は、龍平に薦められるまま、旦那が使うタオル地の肌掛一枚を買った。九千八百円のお買い上げだ。
三人は大急ぎで江坂に帰る。事務所に戻れば、九時を少し廻っていた。
廊下で、帰宅する宮本店長から、すれ違い様に声を掛けられる。
「野須川君、今日はどうだった?」
「上がりました。二件の三万五千四百円です」
「そうか、それは良かった! 二日目で二件は凄いぞ! お目出度う!」
と言いながら、龍平とハイタッチして帰って行った。
これも夕べの彼の指導のお蔭だと龍平は宮本の後ろ姿に頭を下げた。
営業部の部屋に入るなり、田原店長が藤崎部長の前に行った。
「報告します。同乗の新人、野須川君は本日契約二件上げました!」
それを聞いた藤崎は、田原の顔を驚きの表情で暫く見詰めていた。口は開いたままだ。
何か田原に言いたそうだったが、諦めたのか、向こうを向いてしまった。

第二章 その⑯に続く