第十章(自分が変われば世界が変わる) その13

(筆者の第二霊園、美原東ロイヤルメモリアルパークの樹木葬墓)

龍平は俊平の指示に従って、霊園事業者となる「宗教法人香川大社」の正味財産を会計の期首とする平成十二年四月一日で「ゼロ」からスタートさせようとしている。それが財産を野須川寝具から持ち出さなかった証だからだ。
貸借対照表という財産目録を作ると言っても、全く自由に作れる訳ではなく、主たる資産である墓地の残高も、売価で計算するなら、八億円しか残っていないことを知って、龍平の気分は暗くなった。であれば、預金と売掛金と土地(まだ墓地にはしていない土地)と墓地を足しても、香川大社の全資産は五億円そこそこに減少していると龍平は直感した。
であれば、負債も同額の五億円の範囲に納めなければならない。
それをしてはならないことは分かってはいたが、野須川寝具の負債で今後督促される恐れがある負債があれば、龍平は人情で香川大社に持ち込みたかった。しかしこれほどの資産の少なさでは、その殆どが置き去りにしなければならない現実だった。
なぜ墓地がそんなに少なくなったのか。最初は三十億あったのではなかったのか。
一つは墓地単価の変更の問題だ。七百坪の土地が霊園用地から消えて、丹南町の公園になった時、計画通りの三十億の墓地売上を達成する為に、初年度は「聖地」(四聖地が一坪)という墓地面積の単位当たり六十五万で販売を開始し、将来は七十万円に引き上げることで、それをカバーするつもりだった。
ところが実際は不動産デフレが進み、墓地価格まで影響して、聖地単価六十五万でスタートしたのが、何時の間にか二十万円も下げて売らねばならない区画が増えたことが原因のひとつとして挙げられる。

造成工事や管理等建築費に払った金額に、山本石材への和解金、そして本田が作った近畿日本石材への謝礼金(例の開発協力謝礼金)や、黒田会長への謝礼金などは「墓地預かり」で支払ったことになったが、それによって失った墓地や、桜台西、丹比、両地区への協賛金、設計費用、行政に提出する書類作成費などの開発費、そして開園以後六年間の経費も数億円あった。
それに墓地の工事を将来に回したのが四百坪、墓地にしなかった土地が百坪あったから、結局は一千八百坪のメインゾーンの中で残った墓地の売価が八億しかないという状況に陥ったのは、結局は計算の通りなのであった。
香川大社の負債として計上できるのは五億円くらいだが、寧楽銀行の借入が一億六千万円なら、後は三億四千万くらいしか負債を計上できないことになる。
三億と言えば、関西石材とその関連石材店から預かった金は三億二千五百万円。
その内の三億は、建墓権すなわち営業権としてもらった筈だ。だったら負債にはしたくないが、坂下はこの三億を返さなければならない金だと後で言い出していた。
俊平はそんな声を聴かぬようにそ知らぬ顔で放置していた。しかし龍平には聞く耳持たずの姿勢は取り辛かった。
これから未来永遠に坂下家と付き合っていかなければならないからだ。
坂下の息子が東京の大学を出て、既に関西石材の役員として入社していた。
坂下は龍平に、三億二千五百万円を香川大社の負債に計上するよう何度も要求してきた。そうしてもらえなければ関西石材を息子に残してやれないととまで言って、龍平を脅すのだった。

龍平は坂下とは揉めたくなかった。
これがその主たる理由ではないが、開園から二年後の平成七年の秋には、龍平が消費者金融の負債を抱え、苦しんでいるのを坂下が知ることになった。坂下にすれば、龍平はこれから関西石材グループの霊園のオーナーになる男だ。そんな人物が消費者金融に借金があるのは、営業を引き受ける関西石材としては耐えられない程恥ずかしかった。
仕方無く、坂下は俊平には内緒で、龍平がテレアポなどで見つけた客が、百数十万もの高級墓石を契約したケースに限って、まとまった手数料を払うことにした。
龍平は本来なら、平成六年にカードローンをゼロに、消費者金融は平成七年中に完済する計画だったが、工場閉鎖後に新たな債務が見つかったり、開園当初から月給が総額十万円という状態が長く続いたこともあって、カードローンは完済したが消費者金融は逆に増える傾向だった。
龍平は関西石材でのアルバイト報酬で、計画の一年遅れの平成八年に総て完済したのだった。
そのことよりも龍平が考えたのは、今後の両社の切っても切れない関係だった。
龍平は石材協力会石材店の名称で、三億二千五百万円を負債に計上した。
一方、野須川寝具の元帳には俊平からの借入金が二千万程、別に数年前から無給で会社に来ていた長村からの借入も残っていた。俊平の場合は、運転資金の不足時に出していたことに加え、三月に工場の従業員の給与・退職金を払ったことで残高が急増したのである。
龍平は無茶を招致で両者からの借入金を香川大社の負債に持って来た。
そして支払いが長く遅れがちだった社会保険料の未払金も香川大社に移した。

今度は資産をチエックする、預金と墓地代の売掛金(一般顧客)や、管理棟簿価や宗教法人の特別財産となる神殿(管理棟の二階に飾られている)や神祭具などに加えて、墓地にはなっていない土地五百坪を五千万円で評価するなら、負債額の合計から差し引きするなら墓地は四億円となった。これは予定通りの金額だ。
これで期首スタート時のバランスシートが出来上がった。そこに池田祐介が記帳してきた四月から三ヶ月間の会計取引を合算すると、六月末の試算表が出来る。純利益は二百万でていた。
宗教法人の事業の中で、墓地という商品については、それを売って収益を上げても法人税はかからない。よって収益が出ても、法人税は心配せずとも良い。
但しそれは「墓地販売」からの収益に限定されるのであって、それ以外の事業収入には、二十五パーセントの法人税を払わなければならない。
ローソク、線香、花その他お墓の付属品などが売れると、それには税金が掛かる訳だ。
龍平は期首と六月末の二つの貸借対照表を持って、俊平が入院した病院に出かけた。
俊平はベッドから起き上がり「この墓地は全部売ったら、いくらになるのだ」と尋ねた。
「八億です」と答えると、驚かず「なるほど」と頷いた。龍平より俊平の方が、墓地残高をきちんと頭の中で把握していた。
負債の明細を見ても「これで良い。大体儂が考えた内容と同じだ」と満足気だった。
俊平は「その後、霊園事業を宗教法人に移したことで、銀行が何か言って来ていないか」と尋ねた。
まったくどこの銀行も何も言ってきていなかった。

この俊平が機嫌を損ねたのはこの直後だ。
龍平が「こんな状況だと香川大社の代表役員を私に譲って、お父さんは病気治療に専念されたらどうでしょう」と言った途端、俊平の表情が変わった。
「馬鹿言うな! お前なんかに代表を譲ったら三日を待たずに潰れてしまうぜ」と龍平を怒鳴った。
自分がおればこそ、二十九億もの債権がある浪銀ファイナンスから、あるいはその債権者から、野須川家が守れているのだと言いたかったのだろう。
しかし龍平が言いたくても言えなかったのは、その心配は勿論あるけれども、それよりも俊平がある日突然帰らぬ人となったら、香川大社の様な信者もいなくて、実質ペーパーカンパニーに過ぎない宗教法人など、後継手続きが無いのを理由に法人格が取り消しになる可能性大だったのだ。
龍平は危機感を持って病院を後にする。
龍平は俊平の友人たちに会う度に宗教法人の危機的状況を説明した。
皆顔が真っ青になる。「それは大変だ。俊平さんが元気なうちに龍平さんに代表役員を譲ってもらわないと、俊平さんの突然の死と共に宗教法人が抹消され、霊園経営が出来なくなってしまうのですか。今度見舞いに行ったら、俊平さんにうまく言って、龍平さんに代表を譲ってもらうようにしまするよ」と、全員が龍平に約束するのだが、いざ見舞いに行ってそれが言える人は誰もいなかった。
その理由(わけ)は、俊平が怖かったのではない。その逆である。俊平が実は誰よりも怖がりで、自分の死を予感したりしたら、気落ちして自死してしまうかもしれない性格を、友人なら誰もが知っていたからである。

入院して数ヶ月になっても手術もないもので暇を持て余すのか、俊平は我が儘を言っては病院を困らせた。
会社に仕事に行かせろ、ステーキハウスに行きたい、等々である。
勿論腰からチューブが飛び出し、その先には胆汁を貯める袋が付いている。
それを下着や服で隠して、俊平は二度ばかり、四ツ橋の事務所を訪れ、一度龍平と梅田堂山町の馴染みのステーキハウスに行ったことがある。
十月になった。依然として俊平に代表権の継承を勧められる人物はいなかった。顧問弁護士の先生も、会社の経理を任せる会計事務所の先生も、それは出来なかった。
十月の末には病院の担当医から「お父様は年を越せない状況にあります。しかもいつ脳に転移するか、分からない状況です。脳に転移すれば話はできなくなります。つまりお父様は二十四時間眠ったままになるのです」と教えられた。
龍平は、もう時間が無い、丹南メモリアルパークを守る為だ、やむを得ないと、心を鬼にして強引に代表権譲渡の手続きに入ろうと決意する。先ずは司法書士を呼ぶ。
俊平から龍平に代表権を譲る書類を作成してもらった。これに俊平がサインをすれば、直ちに宗教法人を登記してある高松に飛んでもらう段取りだ。
それから代表役員変更を案内する挨拶状を考えた。旧代表には、病気治療に専念する為に息子に代表を譲ることになったという挨拶文、龍平は突然に父親から代表権を譲られ、緊張しておりますと、若輩ながら皆様のご指導ご鞭撻を賜りながら、職務に励みますという内容の挨拶文である。事業を取り巻く周囲の関係者を安心させる為だ。
その日付が確定したら、直ちに印刷に回せるよう、校正まで進めて行く。

十一月に入った。俊平の体力はめっきり落ちてきた。見舞いに来た人と話をするのも辛そうになった。
龍平は病院の担当医を訪問し、宗教法人の事情を説明した。つまり担当医から、俊平に生きて退院することはないと伝えてもらおうと言う訳だ。
それが俊平にとってどんなに残酷なことであって、子供としてどんなに親不孝なことなのかは百も承知だ。
しかしそれをためらった為に、後で霊園の経営権を失うことになれば、それこそ天国の俊平にどんなに謝っても謝りきれない親不孝である。
このことは毎日看病に来ている母親の了解もとった。
「先生、そういうことなので、すみませんが、私たち家族を助けると思って、お願いします」と龍平が担当医に言うと
「お困りのご事情はよく分かりました。それじゃ、二人で病室に行きましょう」と担当医は龍平を誘って俊平の病室に入って行った。
病室には龍平の母親がいた。
担当医は上手に俊平に病状の説明をしたが、勘の良い俊平は担当医がどんなに回りくどい表現をしても、自分の死が宣告されたと受取り、「要するに私の退院はないということなんですな」と大声で叫んだ。
すると俊平は「済まんが、みんな出て行ってくれ」と病室にいた全員を部屋から追い出した。
看病に来ていた自分の妻まで帰してしまった。

翌日朝八時半に龍平は事務所に出勤していた。すると電話が鳴った。俊平からだった。
「龍平か。香川大社の代表権を譲る書類を作成してだな、出来たらそれ持って来いや」と言った。突然のことだった。
それは数日後にでも龍平から言おうとしたことだ。
俊平が一晩病室で考えに考えた結論がこれだったのだろう。
一時間もしないうちに龍平が病室に現れ、書類を出したことと言い、同時に代表者変更の挨拶文の校正まで持って来るという、あまりの手際の良さに、俊平は目を白黒させた。
しかし俊平の表情は驚きから喜びと安心に変わった。これほどのしたたかな息子であれば、二十九億の債権者と互角に渡り合えるだろうと俊平は安心したのかもしれない。
書類にサインするボールペンを握る俊平の手は震えていた。
俊平のサインを求めている間に司法書士がタクシーで病院に駆けつけ、その書類を持って高松に飛んだ。司法書士がこんなに急ぐのは、宗教法人の代表の変更登記が終わるまでに、俊平の癌が脳に転移したら話がややこしくなるからだ。高松での代表者変更の登記は終了した。
俊平の癌が脳に転移したのはその三日後だった。
以後、俊平は朝から晩まで病室で鼾をかいて眠り続けた。
自分の死と真っ正面にぶつかることが出来ない程の怖がりの俊平だったから、脳に転移してくれたのは、かえって良かったのかもしれないと龍平は思うのだった。
平成十二年の十二月になった。四ツ橋の事務所に俊平宛の内容証明付きの書状が送られて来た。          

第十章(最終章) 自分が変われば世界が変わる その⑬(最終回)に続く